第49話 好きです、と一度だけ
冬の足音が近づく休日。王都の中心部から少し離れた、静寂に包まれた歴史ある公園。
私は待ち合わせの指定場所である、古い噴水の前で彼を待っていた。
今日は学院の特任講師としての仕事着ではない。王宮の事務官としての装いでもない。休日のための、少しだけ仕立ての良い落ち着いた色のコートを選んだ。
「仕事ではなく、私的な時間としてお会いしたいです」
数日前、私は誤解の余地がない言葉で彼を誘った。彼は少し驚いたようだったが、私が仕事の相談や、学院長からの常任教官採用の件で呼び出そうとしているのではないと正確に理解し、この場所を指定してくれた。
やがて、枯れ葉を踏む静かな足音が近づいてきた。
「待たせたな」
振り返ると、私服姿のユリウスが立っていた。普段の隙のない教導官の制服とは違う、厚手のウールの外套を羽織ったその姿は、一人の大人の男性としての輪郭を強く感じさせた。
「いえ、私も今来たところです」
私たちは軽い挨拶を交わし、並んで公園の遊歩道を歩き出した。
木枯らしが吹き抜ける中、互いに無言のまま、しばらく落ち葉の絨毯を踏みしめる音が続いた。
私は自分の心臓の鼓動が、少しずつ早くなっていくのを感じていた。
学院生として彼と訓練をしていた頃、私は常に彼からの評価を待ち、彼がくれる正解に縋っていた。アルベルトに婚約を破棄されたあの夜も、私は相手の決定を受け入れるしかなく、自分の意思で何かを選び取る権利を持っていなかった。
でも、今の私は違う。
私は小さく深呼吸をして、足を止めた。彼も二歩先で立ち止まり、静かに私を振り返る。
私は彼と真っ直ぐに視線を合わせた。
「四年前、私が婚約を破棄されてすべてを失い、最も惨めで弱かった時。あなたはこの学院で、私を見捨てずに立たせてくれました」
静かな冬の空気の中に、私の声が響く。
「失敗しても終わらないという安心感を与えてくれたこと。私に考える力を与えてくれたこと。教官としてのあなたへの尊敬と恩義は、どれだけ言葉を尽くしても足りません。一生忘れることはないと思います」
ユリウスは何も言わず、ただ真剣な目で私の言葉を聞いていた。
「でも、私が今日ここでお伝えしたいのは、教え子としての感謝ではありません」
私は両手をコートのポケットの前で軽く握りしめ、言葉に力を込めた。
「王宮で三年間働き、実務官として色々なものを見てきました。そしてこの学院に戻ってきて、あなたと対等な立場で意見を交わし、仕事以外の少し不器用なところも知って……」
誤解の余地のない、最も純粋な言葉の形を探す。匂わせて相手に察してもらうような、曖昧な逃げ道は作らない。
「私は、今のあなたを、一人の男性としてお慕いしています。好きです」
明確な告白。
私の言葉が落ちた後、公園の木々を揺らす風の音だけが聞こえた。
ユリウスはかすかに息を呑み、どこか痛みを堪えるように伏し目がちになった。
「……その言葉は、身に余る光栄だ。今の君のように、自分の足で凛と立つ自立した女性から好意を向けられて、嬉しくない男はいない」
低く、少し掠れた声だった。
だが、彼は私へ歩み寄ることはせず、首を静かに横に振った。
「しかし。私は、君のその好意を受け入れるわけにはいかない」
「……理由を、伺ってもよろしいですか」
「私が君と出会った時、君はすべてを否定され、誰かの肯定にすがりたい状態にあった。私はそこに『教官』という絶対的な上下関係で介入し、君の価値観の土台そのものを形作った」
彼は自分自身を厳しく糾弾するような目で、私を見た。
「今の君がどれほど立派な大人になっていようと、君の私に対する感情の根底に、当時の依存や恩義が混ざっていないと、誰が断言できる? ……君自身でさえ、無意識の刷り込みと恋心を混同している可能性は否定できないはずだ」
彼の懸念は、恋愛に対する無関心でも、私への嫌悪でもなかった。
私が最も無防備だった時期に強い影響を与えてしまった大人としての、重すぎるほどの倫理観。そして、教官という立場を利用して私の感情を縛り付けてしまうことへの、深い恐れだった。
「私がその好意に甘え、かつての絶対的な上下関係を無自覚に利用する形で君の隣に立つことは……私自身の倫理が許さない。すまない」
彼は深く、頭を下げた。
胸の奥が、冷たい風にさらされたように痛んだ。
明確に拒絶されたのだ。
以前の私なら、ここで「そんなことありません」「どうすれば信じてくれますか」と泣いて懇願し、彼に判断を委ねていただろう。あるいは、失敗記録帳で学んだように、すぐさま別の方法で彼を攻略しようと恋愛の反復訓練を始めていたかもしれない。
でも、私は彼にすがりつくことはしなかった。
相手が真摯に考えて引いた境界線を、自分の感情だけで無理に踏み越えることは、相手の尊厳を奪うことだ。
そして何より、私は自分のした告白を後悔していなかった。誰かに選ばれるのを待つのではなく、私が私自身の意思で、一人の男性を選んで言葉を伝えた。その主体性だけは、たとえ彼に拒絶されても、絶対に失われない私の誇りだった。
「……分かりました。お返事、ありがとうございます」
私は震えそうになる声をなんとか抑え込み、彼に向かって綺麗に一礼した。
「私の気持ちは、私の言葉でお伝えしました。今日はお時間をいただいて、ありがとうございました。……月曜日からはまた、特任講師と教導官として、よろしくお願いいたします」
彼が何かを言いかける前に、私は踵を返し、その場から歩き出した。
追わずに、逃げるようにではなく、自分の足で一歩ずつ。彼が私を見送る視線を背中に感じながら、私は公園を後にした。
その夜。
自室に戻った私は、コートを脱ぎ捨てるのも忘れて、椅子に深く腰を下ろしていた。
失恋の痛みは確かにあった。手が届かなかった事実が重くのしかかっている。
彼が私を守るために、己の倫理観に従って慎重に線を引いたことは理解できる。彼らしい、不器用な誠実さだ。
「私の感情に、過去の依存が混ざっているかもしれない……か」
ポツリと呟いた言葉が、静かな部屋に落ちる。
その懸念は分かる。でも、冷え切った部屋で一人考えているうちに、私の胸の奥に、失恋の痛みとは違う、奇妙な違和感が芽生え始めていた。
「私の今の恋心に、恩義や依存が混ざっているかもしれない……だから、私自身の判断まで信用できないの?」
私の心は、私だけのものだ。私がこの四年間、学院で学び、王宮の窓口で人と書類に追われ、特任講師として失敗と修正を繰り返し……そうやって自分で生きてきた中で、それでもやっぱり彼がいいと、一人の大人として選んだ結果なのだ。
彼が過去の影響を恐れて私を拒むのは、彼の選択だ。けれど、その恐れの根拠を、私の判断能力の不足に置くのは違う。
「私の気持ちが本物かどうかまで……先生が判定するの?」
その事実に気づいた瞬間、私の中でくすぶっていた違和感が、明確な反発へと形を変えた。
彼が自分の恐れや倫理観から私を拒むのなら、それは彼の選択だ。私が立ち入る権利はない。
でも、私の感情まで、彼が「元教官」という上の立場から採点するのはおかしい。
「私はもう、先生に正解をもらう生徒じゃないわ」
私はギュッと拳を握りしめ、顔を上げた。
月曜日、職場に戻ったら、彼に言わなければならない。彼を無理に振り向かせるためではなく、拒む理由の主語を、私ではなく彼自身へ戻してもらうために。
私は深い息を吐き出し、次の盤面へと向かう決意を固めた。




