第47話 失敗しても席を立たない
晩秋。特別試験課程の行く末を占う、公開試験の朝。
学院の大講堂には、マルグリット理事をはじめとする運営陣、そして外部評価者として招かれたフェリシア様とエルザ様の姿があった。
「次。ノエミ・ベルク嬢」
試験官に名前を呼ばれ、ノエミさんが教壇の中央へ歩み出た。
私は教室の端にある監督席から、祈るような気持ちで彼女を見守っていた。ここから先、私が彼女に答えを教えたり、合図を送ったりすることはできない。彼女は自分一人の足で、このプレッシャーと戦わなければならない。
「最初の課題は、歴史と外交儀礼の複合口頭試問です」
試験官が問題の紙を読み上げる。
ノエミさんは、最初のうちは見事な滑り出しを見せた。彼女の最大の武器である記憶力を活かし、隣国の複雑な系譜や過去の条約の年号を、淀みなく、かつ正確な発音で答えていく。
観覧席の教員たちから「ほう」と感心の声が漏れる。フェリシア様も手元の評価シートに、高い点数を書き込んでいるのが見えた。
順調だ。このまま彼女の得意な記憶問題だけで乗り切れれば――。
「では、状況を変更します」
だが、試験はそんなに甘くはなかった。試験官が意地悪く眼鏡を光らせ、盤面をひっくり返す。
「先ほどの条約締結の場において、隣国の大使が突如として我が国への非難を始めたと仮定しなさい。その際、あなたが外交官の補佐として、その場で即座に行うべき『初期対応の言葉』と『事後処理の手順』を述べよ」
暗記した知識を吐き出すだけでは対応できない、即興の状況判断。ノエミさんが最も苦手とする、予定外の事態。
ノエミさんの肩がビクッと跳ねた。
「あ……非難に対する、初期対応……」
彼女の視線が激しく泳ぎ始める。頭の中の引き出しを必死に引っ掻き回しているのだろうが、完璧な正解の文章が見つからない。
十秒、二十秒。重苦しい沈黙が講堂に落ちる。
「……答えられませんか?」
試験官の冷たい声が響いた。
「あっ……ええと、その……」
ノエミさんの顔から完全に血の気が引き、唇がわなわなと震え始めた。
彼女の中で「失敗した」「もう終わりだ」という過去の恐怖が蘇っているのが、痛いほど伝わってくる。
彼女の膝が震え、片足が一歩、後ろへ引かれた。逃げる。以前の彼女なら、間違いなくここで「私には無理です」と泣き出して教室を飛び出していた。
私は両手を固く握りしめ、ただ黙って彼女の背中を見つめ続けた。
助けには行かない。彼女が自分で選ぶのを見るまでは。
一歩引いたノエミさんの足が、ピタリと止まった。
彼女は目を強く閉じ、そして、大きく深呼吸をした。
すう、はあ。
それは、私と空き教室で何度も何度も繰り返した、「パニックになった時に、まず思考を切り離すための呼吸」だった。
ノエミさんは目を開き、試験官を真っ直ぐに見据えた。
「……申し訳ありません。完璧な外交辞令としての返答は、現在用意できません。ですが」
彼女は逃げなかった。自分の「できないこと」を認めた上で、盤面に残るための次の言葉を紡ぎ出した。
「ですが、大使が非難を始めた事実のみを客観的に記録し、その場では相手の感情を逆撫でしない傾聴の姿勢を保ちます。その後、録取した正確な発言記録を速やかに上層部へ提出し、正式な反論の構築を仰ぎます」
完璧な正答ではない。外交官補佐としての点数をつけるなら、及第点ギリギリか、それ以下の泥臭い対応だ。
試験官は少し呆れたようにため息をついた。
「即応できないのは致命的ですが……まあ、事実の記録と上層部への報告という最低限の措置は押さえている。減点対象だが、課題の継続は認めよう」
点数は引かれた。でも、試験は終わらなかった。
ノエミさんはそこから崩れることなく、残りの実技課題を最後までこなしきり、一礼して教壇を降りた。
総合上位に入るような、奇跡の大逆転ではない。
だが、あそこで逃げ出さず、自分の不格好な答えを絞り出して最後まで試験の場に残りきった彼女の姿は、間違いなく、彼女自身が勝ち取った最大の報酬だった。
試験後の講評の時間。
外部評価者として招かれたフェリシア様とエルザ様が、それぞれ演台の前に立った。
「記憶力と語学の基礎は申し分ありません。即興の対応力にはまだ大きな課題が残りますが、パニックを起こした後に『事実の記録に徹する』という代替手段へ自力で移行できた点は、実務家としての最低限の安全装置が機能していると評価しますわ」
フェリシア様は手元の採点表を見ながら、正確な技能評価を下した。
「ええ。何より、一度つまずいた後に動揺を引きずらず、最後まで試験の盤面に立ち続けた精神的な復元力は、現場において非常に価値のある資質です」
エルザ様も、かつて大失敗から戻ってきた自分自身の実感を込めるように、力強く証言してくれた。
最後に、マルグリット理事が立ち上がった。
彼女は手元の資料と、ノエミさんの試験結果を交互に見比べた。
「……ノエミ・ベルク嬢の行動が、以前の『ただ逃げ出すだけ』の状態から明確に改善しているという事実は、私も認めましょう。ハルフォード特任講師の指導が、一定の成果を上げていることは疑いようがありません」
マルグリット理事の口から、初めて明確な肯定の言葉が出た。
だが、彼女はすぐに厳しい表情に戻り、言葉を継いだ。
「しかし。他の四名の受講者の中には、すでに学院を去り、別の外部訓練へ移行した者もいます。全員がこの学院の型に嵌まるわけではないということも、同時に証明されました。……この一回の試験結果だけで、特別課程の恒久的な予算化を認めるには、まだ検証材料が足りません」
理事の正論は変わらない。
ノエミさんが最後まで試験の場から逃げなかったこと。クロエさんが別の道を選んだこと。その一つ一つの事実をどう繋ぎ合わせれば、「学院の予算を使ってでも残すべき制度」として成立するのか。
まだ、私たちにはその答えの形が見えていなかった。
すべてのプログラムが終了し、講堂から人が引いていく中。
片付けをしていた私の元へ、学院長が静かに歩み寄ってきた。
「お疲れ様でした、ハルフォード特任講師」
「学院長。本日はありがとうございました」
「あなたの指導の成果は、今日この場にいた全員が確かに見届けました。王妃殿下の基金による一年限定の特任期間も、間もなく終わろうとしています」
学院長の言葉に、私は姿勢を正した。
「ついては、明日の午後、院長室へ来なさい」
学院長は私を真っ直ぐに見つめ、静かに告げた。
「『特任講師』としての評価ではなく……来年度以降の、あなたのこの学院における正式な身分と、再挑戦課程の今後について、話をしましょう」
それは、教え子の試験が終わった今、ついに私自身が教官として評価される番が来たという宣告だった。




