第46話 残すことが救いとは限らない
特別試験課程の教室には、重く苦しい沈黙が落ちていた。
「……っ、う、あ……」
教壇の前に立たされたクロエさんが、両手でスカートを固く握りしめたまま、顔を真っ青にして震えている。
今日の課題は、領地経営を想定した『不満を持つ領民との対面交渉』の基礎練習だった。私がどれだけ相手役のトーンを落とし、手順を細かく分けても、クロエさんは『他者から強い視線を向けられ、即座の返答を求められる』という状況そのものに耐えきれず、完全に声が出なくなっていた。
「クロエさん、大丈夫よ。一度深呼吸をして、メモを見てちょうだい。最初は挨拶の言葉だけでいいから」
私は彼女を励まし、失敗記録帳に新しい『戻るための手順』を書き込もうとした。
かつての私は、総合百二十七位というどん底から、反復と手順の分解によって実務の現場に立てるまでになった。だから、クロエさんも絶対にできるようになるはずだ。私が彼女を見捨てず、この学院に残るための方法を根気よく探し続ければ、いつか必ず――。
「そこまでになさい、ハルフォードさん」
不意に、教室の最後列から凛とした声が響いた。
振り返ると、王宮の政策立案部門から『外部評価者』として視察に訪れていたフェリシア様が、手元の書類から視線を上げていた。
「フェリシア様……ですが、彼女はまだ練習の途中で……」
「彼女が怠けているわけではないことは、この数時間の記録を見れば分かりますわ」
フェリシア様は教壇へ歩み寄り、泣きそうになっているクロエさんへ「もう席に戻って休んでいいわよ」と優しく声をかけた。
クロエさんが逃げるように自分の席へ戻るのを見届けてから、フェリシア様は私に向き直った。
「ハルフォードさん。あなたは自分がどん底から這い上がれたから、彼女も同じようにこの学院の課程をこなせるようになると信じているのね」
「はい。不測の事態に弱いのは、私も同じでしたから」
「いいえ、違うわ。あなたは不測の事態に直面した時、『立て直して盤面を支配する』という、実務家として極めて強力な適性を隠し持っていた。だからこの学院の上級実務と噛み合ったの」
フェリシア様の静かな指摘が、私の胸にチクリと刺さった。
「でも、全員があなたと同じ強みを持っているわけではないわ。この学院は、対人折衝や危機対応といった最前線の実務を担う人間を育てる場所よ。その最前線に立つこと自体が致命的に向いていない人間を、無理やりこの型に押し込めて『残す』ことが、本当に彼女のためになるのかしら?」
私は、手に持っていたペンを強く握りしめた。
前回のマルグリット理事の問いが蘇る。五人全員を学院に残すことが、本当に正しいのか。
私は、アルベルトに「時間をかける価値がない」と判断された夜の傷から、『学院から去らせること=見捨てること』だと思い込んでいた。だから、クロエさんが対人業務にどれほど苦痛を感じていても、無理に学院の型へ押し込もうとしていたのだ。
「……フェリシア様のおっしゃる通りです」
私は小さく息を吐き、自分の傲慢さを認めた。
「私は彼女を、私のやり方で学院に残すことばかり考えていました」
その日の放課後、私とフェリシア様は、クロエさんと三人だけで面談を行った。
「クロエさん。あなたに、対面での実務交渉は向いていないわ。このまま学院のカリキュラムを続けても、あなたが苦しむだけよ」
私はこれまでの無理な指導を謝罪した上で、はっきりと事実を告げた。
クロエさんの目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「やっぱり……私は駄目なんですね。親にも見放されて、この学院からも追い出されたら、私にはもう行く場所なんて……」
「追い出すのではありませんわ、クロエさん」
フェリシア様が、すかさず言葉を継いだ。
「ハルフォードさんから提出されたあなたの失敗記録帳を、別の角度から分析しましたの。あなたは対人業務では固まってしまいますが、情報整理の課題では、誰よりも丁寧に、一行のミスもなく帳簿を書き写していますわね」
「あ……はい。一人で静かに記録を整えたり、古い書物を書き写したりする時間は……好きです。落ち着くから」
「素晴らしい適性ですわ」
フェリシア様は手元の資料を一枚、クロエさんの前に置いた。
「これは、王立文書館が主催している、書物の修復と公記録の編纂技術を学ぶための外部職業訓練の案内よ。対人の折衝はなく、ひたすら手元の正確な記録と向き合う専門職の入り口ですわ」
私はクロエさんの顔を見た。
「学院を去ることは、敗北でも、見捨てられることでもないわ。あなたの適性に合わない場所から、あなたが一番力を発揮できる場所へ『道を変える』だけ。それも、立派な再挑戦の一つよ」
私たちから強制はしない。最終的にどの道を選ぶかは、本人の意思だ。
クロエさんは、涙で濡れた顔のまま、フェリシア様が提示した資料をじっと見つめていた。
「……私、ずっと怖かったんです。ここからいなくなったら、私という人間が消えてしまうみたいで。でも……」
彼女はそっと資料に手を伸ばし、それを胸に抱きしめた。
「私、この手仕事なら、できるかもしれません。……やってみたいです」
その顔には、先ほどまでの絶望ではなく、かすかな安堵と、新しい道へ踏み出すための小さな光が宿っていた。
数日後、クロエさんは正式に学院を自主退学し、王立文書館の職業訓練へと籍を移した。
彼女が荷物をまとめて寮を出る日、私は正門で見送りをした。
「先生。短い間でしたけど、私を見捨てずにいてくれて、ありがとうございました。私、向こうの訓練所で頑張ります」
「ええ。あなたなら絶対に立派な記録官になれるわ。元気でね」
馬車に乗り込む彼女の背中を見送りながら、私はふっと息を吐き出した。
五人いた特別クラスの生徒が、四人に減った。これを「一人の脱落者を出した失敗」と見る人もいるだろう。一抹の寂しさがないと言えば嘘になる。
それでも、クロエさんの最後の笑顔は、この学院の教室で無理をして泣いていた時より、ずっと晴れやかだった。
「……いいお顔でしたね、クロエさん」
私の横で一緒に見送りをしていたノエミさんが、遠ざかる馬車を見つめながらぽつりと呟いた。
「ええ。彼女は自分の足で、自分に合う道を選んだのよ」
「私……ずっと、思ってました」
ノエミさんは、自分の胸に手を当てて、静かに言葉を紡いだ。
「この学院で失敗したら、もう私の人生は終わりなんだって。期待に応えられなくて、ここから放り出されたら、私にはもう何の価値もなくなって、真っ暗な底に落ちていくだけなんだって。……それが怖くて、失敗から逃げ続けていました」
彼女の視線が、私へと向けられる。
「でも、クロエさんは壊れませんでした。学院を辞めたのに、あんなに前を向いて歩いていけた。……失敗しても、別の道があるんですね。ここが、世界のすべてじゃないんですね」
「そうよ。あなたはどこへ行っても、あなたのままで価値があるの」
ノエミさんは深く深呼吸をして、王立学院の巨大な校舎を見上げた。
やがて、ノエミさんにとっての最大の壁である『公開試験』が行われる。多くの教員や理事たちの前で、彼女の学習成果が試される場だ。
「先生。私、もし公開試験で大失敗して、この学院に残れなくなったとしても……もう、人生が終わるなんて思いません。私にも、クロエさんみたいに別の道が探せるって分かったから」
彼女の横顔から、かつての切迫した怯えが消え去っていた。
逃げ道がないから戦うのではない。逃げてもいい、別の道もあると知った上で。
「別の道があるって分かったからこそ。……私は、今の自分から逃げるためじゃなく、自分がどこまでできるか知るために、あの試験を最後までやり遂げたいです」
それは、ノエミさんが初めて、恐怖に背中を押されるのではなく、自分の意思で実務の盤面に向き合おうと決意した瞬間だった。
私は彼女の力強い言葉に、静かに、けれど万感の思いを込めて頷いた。
公開試験は、学院側との調整で秋の終わりに行われることになった。制度の継続審査に使う以上、一度の好結果ではなく、複数の受講者の経過を揃えて示す必要があったからだ。
夏から秋にかけて、残る四人の結果は少しずつ分かれていった。
複数の指示で混乱していた生徒は、依頼を一枚ずつの作業札に分ける方法を身につけ、通常課程の記録実務へ戻った。病後の体力が戻らない生徒は、無理を重ねる前に自分から休養を申し出て、治療を優先する長期離脱を選んだ。家の期待と適性の間で進路を決められなかった生徒は、三つの職場体験を終えても結論を急がず、自分が働ける条件を家族へ説明できるところまで進んだ。
そしてノエミさんは、想定外の問いを混ぜた模擬試験を重ねるたび、立ち去らずに戻れる回数を増やしていった。
木々が色づく頃、延期されていた公開試験の日程が、ついに三日後へ決まった。




