第45話 学院の格
夏の盛りを迎えた学院。その日、運営理事会が招集された大会議室は、ピンと張り詰めた空気に満ちていた。
上座に座るのは、学院の予算と規律を司るマルグリット・セルヴァン理事。四十代半ばの彼女は、厳格なグレーのドレスに身を包み、冷徹な目で私と手元の資料を交互に見つめていた。
「ハルフォード特任講師。あなたが担当している特別試験課程について、本日は数字に基づく検証を行いたいと思います」
マルグリット理事の声には、感情的な響きは一切なかった。
「現在、王妃殿下の救恤基金から、あなたの特任講師としての報酬と五名分の教材費が助成されています。金銭的な意味では、学院本体の予算を直接的に圧迫しているわけではありません」
「はい」
「しかし、教育資源とは金銭だけではありません。あなたが週に十時間、東棟の教室を占有し、それに伴う補助職員の配置を要求している事実。そして何より、あなたという『有能な実務家』の時間を、たった五名の落第候補者のために使い切っているという事実です」
彼女は手元の別の書類を、理事たちの前へ滑らせた。
「その結果、先月から上位二十名を対象とした『高度外交実務演習』の枠が、週二コマ分削減されました。指導できる教員と教室が足りなくなったからです。……限られた学院の資源を底辺の引き上げに注ぎ込めば、当然、トップ層を伸ばすための教育が削られます。これは学院の『格』に関わる重大な損失です」
胸の奥に、重い鉛を飲み込んだような痛みが走った。
フェリシア様のように、類まれな才能を持ち、国を背負って立つトップ層の生徒たち。彼女たちの教育機会を削ってまで、ノエミさんたち五人を救うのが「絶対的な正義」だとは、私にも言えなかった。
「……理事のおっしゃる通りです。上位の生徒たちの教育機会を損なうことは、私の本意ではありません」
私は反論せず、事実を真っ直ぐに認めた。
「ですが、この五名に割いている時間が、無価値な浪費だとも思いません。こちらの資料をご覧ください」
私は手元から、ノエミさんの進捗記録を提出した。
「対象者の一人、ノエミ・ベルクの直近一ヶ月の記録です。ここには、彼女の小試験の点数は書かれていません。記録されているのは、『想定外の問いに対して、退出せずに席に留まった回数』『パニックを起こした後、自ら再挑戦を申し出た回数』です。彼女の『失敗して逃げる』という課題は、明確に改善されています」
マルグリット理事は、私の提出した記録を手に取り、冷静な目で数字を追った。
「……なるほど。確かに、行動の客観的な改善は見られますね。ただの精神論ではないことは認めましょう」
理事は記録書を卓に置き、しかし毅然とした態度を崩さなかった。
「ですが、ハルフォード講師。これはあくまで『一人の生徒が伸びた』という美談に過ぎません。王妃殿下の基金は一年限定です。助成が切れた来年以降、学院が恒久的に本体予算を割いてまで、この採算の合わない教育を丸抱えすべきだという根拠にはなりません」
「丸抱えの損失とは限りませんわ、理事」
不意に、会議室の来賓席から声が上がった。
学院の卒業生であり、現在は実家の領地経営に携わりながら外部監査役として招かれている、エルザ・ローゼンベルクだった。
彼女はゆっくりと立ち上がり、理事たちへ向かって一礼した。
「私は四年前、この学院で実務順位十七位から、一度の大きな失敗で四十位台まで転落した経験があります」
エルザ様の言葉に、理事たちの間にわずかなざわめきが起きた。プライドの高い彼女が、かつての自分の大失態を公の場で自ら口にしたのだ。
「あの時、私を無能だと見限り、教育の資源を割く価値がないと切り捨てられていれば、私は二度と立ち上がれず、実務家としての今の私は存在しなかったでしょう。私は失敗から戻る方法を学び、最終的には十四位まで再浮上して卒業しました」
エルザ様は真っ直ぐに私を一瞥し、そしてマルグリット理事へ視線を戻した。
「一度の失敗や不適合で生徒を切り捨てることは、長い目で見れば、将来王国を支えるはずだった実務家という『資産』をドブに捨てるのと同じです。彼女の特別課程は、その損失を防ぐための正当な投資になり得ます」
私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
かつて私を激しく敵視し、そして私が失敗記録帳のやり方を貸したエルザ様。彼女が今、自分の痛みを伴う失敗の経験を、他の誰かの再挑戦を支えるための強力な証言として使ってくれている。
だが、マルグリット理事は手元の資料を閉じなかった。
「価値ある証言です、ローゼンベルク卿」
理事は小さく頷き、しかし言葉の刃を緩めなかった。
「あなたは本来優秀であり、基礎能力があったからこそ、その再教育が投資として成立したのでしょう。……ですが、現在ハルフォード講師が抱えている五名全員が、あなたと同じように『学院が予算を割いてまで引き上げるべき人材』なのでしょうか?」
「それは……」
「この特別試験課程の存続は、次回の理事会まで継続審議とします。ハルフォード講師。一年限定の助成が切れた後、あなたがこの制度をどう自立させるつもりなのか、明確な成果と予算の答えを用意しておきなさい」
会議は終わった。
マルグリット理事の問いは、重い鉛のように私の胃の腑に居座っていた。
「五人全員が、引き上げるべき人材なのか」
午後の特別クラスで、私は五冊の記録帳を机に並べた。
ノエミさんは、想定外の問いから戻れる回数が増えている。複数指示で混乱する生徒も、作業を一つずつに分ければ進めるようになった。病後の生徒は、自分から休憩を申告できた。進路を決められない生徒の帳面には、苦痛なく続けられた作業が少しずつ増えている。
けれど、クロエさんの記録だけは違った。
対人課題の日には、声が出ない。呼吸が浅くなる。翌日まで食事が取れない。安全な環境と短い練習を重ねても、改善より消耗の方が大きかった。
放課後、帳面を返すと、クロエさんは表紙を抱きしめたまま俯いた。
「先生。私、ここに残るために頑張っているのに……どうして、続けるほど苦しくなるんでしょう」
私は「努力が足りないから」とは言えなかった。だからといって、「もっと続ければ必ずできる」とも言えなかった。
翌日は、フェリシア様による外部評価の日だ。私は答えを出せないまま、クロエさんの記録帳の写しを評価資料の一番上へ置いた。




