第44話 私的なお誘いです
特別試験課程の始動から一か月。初夏の夕刻、他の教員たちが帰り支度を終えて一人、また一人と退室し、広い教員室には私とユリウス教導官の二人だけが残った。
私は自分のデスクを片付けながら、何度も頭の中で言葉の形を整えていた。
前回のレストランでの食事は、私の誘い方が実務的すぎたせいで、彼に「機密性の高い業務の打ち合わせ」だと完全に勘違いさせてしまった。相手に意図が伝わらなかったのなら、伝え方を変えればいい。誤解の余地をなくすために、今回ははっきりと口にする。
私は小さく深呼吸をしてから、書類仕事をしている彼のデスクへ歩み寄った。
「ヴァイス教導官。本日の業務はお疲れ様でした」
「ああ、ハルフォード。特任クラスの報告書なら、明日の朝でも構わないぞ」
彼は手元の書類から顔を上げずに言った。
「いえ。本日の業務はもう終了しました。ですから、これは職務上のご相談ではありません」
その言葉に、教官のペンがピタリと止まった。彼はゆっくりと顔を上げ、私を真っ直ぐに見据えた。
「今度のお休みの日に、私と王都の街を歩いていただけませんか。仕事の資料も、生徒の評価記録も一切なしで。……純粋な、私的なお誘いです」
少しだけ声が震えたかもしれない。だが、言葉の輪郭ははっきりと伝えられたはずだ。
数秒の、ひどく長く感じられる沈黙が降りた。
「……なるほど」
教官は静かに息を吐き出し、背もたれに体を預けた。前回のように『外部の相談事だな』と仕事にすり替えるような逃げ方はしなかった。私が発した言葉の真意を、彼特有の鋭い知能で正確に受け取ったのだ。
「前回の食事の誘いも、本当はそういう意図だったというわけか。私が実務として処理したから、今回は逃げ道のない言葉を選んできたな」
「はい。……ご迷惑でしたか」
「迷惑ではない」
教官の平坦な声が、静かな教員室に響いた。
「だが、今はその誘いを受けられない。君の特任期間中、私は指導記録の確認者であり、任期評価にも意見を求められる立場だ。私的な関係を持てば、君の評価に疑義を生む」
「……任期が終われば、答えは変わりますか」
「今ここで将来の返事を約束することも、君を待たせるのと同じだ。その時に互いがどう考えているかは、その時の私たちが決めるべきだろう」
胸の奥がチクリと痛んだが、理由は理解できた。彼が拒んだのは私の価値でも、私の感情でもない。現在の職務上の境界だった。
「……分かりました。お休みの日の予定はお取り下げします」
私は一歩下がり、綺麗な礼をした。
「お仕事の後に、勝手なことを申し上げて申し訳ありませんでした。明日からも、特任講師としてよろしくお願いいたします」
教官は何も言わず、ただ静かに頷き返した。
翌日からの職場は、ひどく気まずい空気になるかと思ったが、そんなことはなかった。
「ハルフォード特任講師。この予算申請だが……」
「はい、教導官。そちらの項目は昨日のうちに……」
私たちは互いに、完璧な実務家として振る舞った。変に意識して距離を空けることも、無理に明るくすることもせず、ただ淡々と、対等な専門家としての業務を遂行した。
恋愛で一度拒絶されたからといって、仕事の盤面まで崩すような幼さは、もう私にはない。彼が職務上の線を守るのなら、私もその線のこちら側で、自分の仕事をこなすだけだ。
「先生。今日の模擬面接の練習で、また頭が白くなって言葉が出なくなってしまいました。でも、そのあと深呼吸をして、昨日教えてもらった代替の挨拶へ戻れました」
昼下がりの東棟。私の特任クラスで、ノエミさんが自身の失敗記録帳を開いて報告に来た。
その声に、かつての過呼吸を起こしそうなほどの怯えはない。自分が間違えたという事実を隠さず、堂々と「失敗しました」と口にできるようになっている。
「よくできたわね。面接の途中で止まってしまうのは誰にでもあることよ。大切なのは、そこから自分の意思で戻ってこられたこと。その調子で続けましょう」
私がノートに確認のサインを書き込むと、彼女は嬉しそうに席へ戻っていった。
五人の生徒たちの歩みは遅い。でも、ノエミさんのように「失敗しても見捨てられない」という安全基地を得て、確実に自分の足で歩き始めている子もいる。
私は彼らの成長を見守りながら、ふと教員室にいる教官の顔を思い浮かべた。
私的な話は、任期評価が終わるまで脇へ置く。生徒たちの成長は、彼に認めてもらうための証明ではない。教える側として引き受けた責任の結果だ。
その日の夕刻。
私が準備室で五人の指導記録をまとめていると、学院の事務員から一通の封書が届けられた。
差出人は、学院運営理事兼会計監督の、マルグリット・セルヴァン。
学院の予算と規律を司り、冷徹なまでの現実主義で知られる厳格な理事からの、直接の書状だった。
嫌な予感がして、私は急いで封を切った。
便箋には、私が担当している特任クラスにかかっている「教員時間」と「施設維持」の算出データが、緻密な数字の羅列とともに記されていた。
『王妃殿下の基金から予算が下りているとはいえ、学院の限られた教育資源という総量が増えているわけではありません。ハルフォード特任講師、あなたがこの五名につきっきりで対応していることにより、本来上位生徒に提供されるべき実務応用の専門教育枠が、先週から週に二コマ分削られている事実をどう見ますか』
私は手元の数字を見つめたまま、息を呑んだ。
マルグリット理事の主張は、単なる再挑戦者への嫌がらせではない。成績優秀な生徒たちの教育の質を守るという、学院の責任者としての強烈な『正論』だった。
『全体の利益を損なってまで、一握りの落第候補者のために学院の格を下げる特例を、いつまで続けるつもりか。次回の理事会にて、あなたの特任クラスの存続に関する正式な審査要求を提出します』
背筋に冷たいものが走った。
ユリウス教官との個人的な関係の悩みは、今は箱にしまっておくしかない。
特任講師として私が守るべき五人の生徒の居場所が、今度は「予算」と「学院の格」という、巨大な制度の壁によって本気で潰されようとしていた。




