第43話 切る人ではなく、詰まりを切る
学院の東棟にある空き教室。五人の生徒たちを受け入れた『特別試験課程』は、手探りのまま二週目を迎えていた。
「……よし、計算は合っているわ。ノエミさん、ここ数日は途中で間違えても、自分で手順を戻せるようになってきたわね」
私の言葉に、ノエミさんは少しだけ誇らしげに頷き、手元の失敗記録帳に『戻れた方法』を書き込んだ。彼女に関しては、安全な失敗を繰り返させる訓練が確実に効き始めている。
だが、問題は他の生徒たちだった。
ノエミさんの隣の席に座る小柄な令嬢、クロエさんは、今日の対人面接の練習で一言も声を出せず、ずっと下を向いたまま固まっていた。
「クロエさん。大丈夫よ、無理に話さなくても」
私がそっと声をかけると、彼女は震える手で『今日は人と目が合わせられなかった』と記録帳に書き込んだ。
ノエミさんのように「間違えること」が怖いのではない。クロエさんは「人に見られること」自体に極度の恐怖を感じているのだ。当然、ノエミさんと同じようにわざと失敗させる訓練などをすれば、彼女は完全に心を閉ざしてしまうだろう。
やはり、一つの方法で全員を救う魔法なんて存在しない。五人には五通りの弱さがあり、私はその一人ひとりに合わせた別々の訓練を、日々悩みながら作り続けなければならなかった。
そこへ、学院の事務員が一部の書類を持って教室へ入ってきた。
「ハルフォード特任講師。王宮の行政管理部から、受講者たちの事前審査に関する通知です」
それを見たノエミさんたちが、一斉に顔を曇らせた。
「先生……また、王宮の窓口に行かないといけないんですか?」
「今日こそ、午後の模擬実務の訓練を最後までやりたかったのに……」
彼女たちが憂鬱になるのも無理はなかった。
特別課程の受講生は、学院での訓練と並行して、王家救恤基金や別の支援部署の窓口に何度も足を運ばなければならなかった。管轄が違うという理由で、行く先々で同じ経歴証明書を一から書き直し、過去の失敗を何度も口頭で説明させられる。そのたびに彼女たちは精神的にひどく疲弊し、何より、貴重な午後の訓練時間を丸ごと潰されてしまっていた。
「待って」
私は通知書に目を通し、驚きに目を見開いた。
「……窓口での再申告は、不要になったみたい」
「えっ?」
「『本日付より、当部署にて保管する基礎登録データを各管轄へ直接複写・回付する試験運用を開始したため、受講者本人による各窓口での重複申請は免除とする』……って書かれているわ」
生徒たちの顔がパッと明るくなった。
「本当ですか!? じゃあ、今日の午後は休まずに訓練できるんですね!」
ノエミさんたちが嬉しそうに席へ戻っていくのを見ながら、私は通知書の末尾にある、小さな確認印のサインを見つめた。
そこには、見慣れた流麗な文字で『A・グレイヴ』と記されていた。
その日の夕刻、私は提出書類の束を持って、王宮の地下に近い行政管理部へ足を運んだ。
薄暗い書類受付の窓口で、アルベルトは黙々と台帳にペンを走らせていた。
「……ハルフォード特任講師か」
私がカウンターの前に立つと、彼は手を止めずに視線だけを上げた。
「ええ。通知、受け取りました。重複申請の免除措置、上司の方の決裁が下りたんですね」
「ああ。各部署の承認を得るのに少し手間取ったが、なんとか特例の範囲内で試験運用の許可が下りた」
アルベルトは事務的な手つきで、私の差し出した書類を受け取って確認を始めた。
「対象者を弾くための審査基準は一切変えていない。ただ、申請者が各窓口へ提出した書類を、それぞれの部署の担当者が手書きで別々の台帳へ転記していた手順を削っただけだ。原本を一括管理し、必要な項目だけを複写して回すようにした」
彼がやっていることは、決定権を持つ官僚としての華々しい制度改革ではない。窓口の最前線で、一つ一つの処理速度を測りながら、不要な事務作業を削り落としていく、極めて地味な下級実務だ。
「結果として、この窓口での書類の滞留は三割減少し、転記ミスによる差し戻しも発生していない。効率化の試みとしては、想定通りの数字が出ている」
四年前の彼なら、全体の効率を上げるために「能力の低い申請者」そのものを測定範囲から切り捨てていた。
だが今の彼は、人を切り落とすのではなく、書類の重複や待ち時間という「手続きの詰まり」を切ることで、数字を改善している。
「……あなたのその事務改善のおかげで、受講者たちは心身をすり減らさず、訓練のための時間を失わずに済みました」
私は彼の手元を見つめながら、はっきりと言った。
「今の仕事が、彼女たちの再挑戦を支えています。……助かりました」
アルベルトは書類に確認印を押し、それを私へ返した。
「私はただ、与えられた職務の範囲で、無駄を減らしただけだ。……君の教え子たちの訓練が、有意義なものになることを願っている」
彼はそれ以上何も言わず、次の書類の山へと向き直った。
私は彼に向かって小さく一礼し、窓口を後にした。もう、彼がどんな答えを出してくるかと怯える必要はない。過去の精算は、本当にここで終わったのだ。
王宮を出て、夕闇が迫る王都の通りを歩きながら、私は大きく伸びをした。
アルベルトの手続き改善によって事務的な障壁が一つ減り、これで私は、ノエミさんやクロエさんたち五人の教育に、より多くの時間を割くことができる。
仕事の課題が一つ前進したことで、心にふっと余裕が生まれた。
その余裕の隙間に入り込んできたのは、やはりユリウス教官の顔だった。
「……この前は、失敗しちゃったわね」
私は自分の間抜けな振る舞いを思い出して、小さくため息をついた。
彼を一人の男性として見始めた私が、勇気を出して誘ったレストランでの食事。結局、私の誘い方が実務的すぎたせいで、彼はそれを完全に『機密性の高い業務打ち合わせ』だと解釈してしまった。
彼のせいじゃない。いつも論理的で仕事に厳しい彼に向かって、「落ち着いた場所で意見を交わしたい」などと言えば、そう受け取られるのは当然のことだ。
なら、どうすればいいか。答えはシンプルだ。
相手に伝わらなかったのなら、伝わらなかった原因を分析して、伝え方を変えればいい。失敗記録帳で学んだ、一番基本的なこと。
「曖昧な言葉は通じない。それなら今度は、絶対に誤解の余地がないように誘うしかないわね」
私は両手で自分の頬を軽く叩いた。
「これは仕事の相談ではありません、私的なお誘いです」と。そうはっきり口にして、彼がどんな顔をするか見てみたい。
教育の試行錯誤はこれからも続くけれど、それとは別に、私自身の新しい課題が一つできた気がして、帰り道を進む足取りは不思議なほど軽かった。




