第42話 一番下から働く元婚約者
王宮の地下に近い、窓も小さく埃っぽい行政管理部の書類受付窓口。
私と、カウンター越しに座る無地の事務服を着たアルベルトは、数秒の間、互いに無言のまま視線を合わせていた。
かつて大勢の前で私との婚約を一方的に解消した、財政院の若きエリート分析官。彼がなぜ、こんな王宮の最下層の部署で窓口業務をしているのか。
「……驚いた顔だな、ハルフォード特任講師」
アルベルトは手元の印箱を置き、淡々とした声で口を開いた。そこにはかつての傲慢さも、逆に惨めさに打ちひしがれたような卑屈さもなかった。
「私はあの騒動の後、改革チームを外され、処分を受けた。その後、君たちが整えた『再訓練制度』の枠組みに私自身が申請を出し、規定の教育課程を経て、この記録管理課へ下級事務官として配属された。それだけのことだ」
彼の言葉に、私は静かに頷いた。
「……そうでしたか」
私は返す言葉を探した。
「私語は慎め、グレイヴ。確認が終わったなら早くこちらの決裁箱へ回せ。午後の集計が遅れるぞ」
奥の席に座る年配の上司から、容赦のない声が飛ぶ。
「申し訳ありません。ただちに」
アルベルトは頭を下げ、私の提出した五人分の特別試験課程の申請書類に再び視線を落とした。決定権は彼にはない。彼はただ、書類に不備がないかを確認し、上司へ回すだけの歯車の一つなのだ。
アルベルトの書類をめくる手つきは、相変わらず無駄がなく正確だった。彼の処理能力の高さは、一番下の部署にいても変わらない。
彼が書類の確認を進める間、私はふと、今朝の教室でのノエミさんの不安げな顔を思い出していた。
『先生……私の正式な訓練は、いつから始められるんでしょうか』
彼女たち五人の受け入れは、王家救恤基金からの助成が下りることが前提となっている。しかし、基金、救恤局、そして学院という三つの機関を跨ぐ手続きはひどく煩雑で、書類が完全に受理されるまでは、彼女たちに本格的な実務の課題を与えることができない。
助成の期間は一年限定だ。書類の処理が数日遅れるだけで、彼女たちが安全に失敗し、立ち直るための貴重な時間が削られていく。受講者にとって、事務手続きの遅れは訓練機会の喪失そのものだった。
「ハルフォード特任講師」
アルベルトの声に、私は意識を現実に戻した。
「この五名のうち、三名の書類について確認したい」
彼は五人分の申請書のうち、三枚を抜き出して私の前に並べた。ノエミさんを含む三人の書類だった。
「この三名が提出している『過去の実務経歴証明書』だが……彼女たちは先週、救恤局の窓口へも全く同じ内容の証明書を提出しているはずだ。そして、さらにその数日前には、王家救恤基金の事前審査でも同様の経歴を申告している記録がある」
彼は手元の別台帳を素早くめくり、該当するページを指で叩いた。
「なぜ、同じ情報を三つの部署へ別々に提出させている? 各機関で情報を共有すれば、申請者本人が何度も同じ証明を取り寄せて書き直す手間は省けるはずだ」
私は少しだけ目を見開いた。
彼が指摘したのは、申請者の不備ではない。行政側の『手続きの重複』だった。
「それは……制度の管轄が違うからです。学院、救恤局、基金のそれぞれで、規則上どうしても原本の提出が求められていると聞いています」
「規定通りに処理しろと言われればそれまでだが……」
アルベルトは眉間に皺を寄せ、手元の書類と台帳を見比べた。
「以前の私なら、この煩雑な手続き自体が『能力の低い者を弾くための自然なフィルターになる』と考えて放置しただろう。何度も同じ書類を出せないような忍耐力のない者は、どうせ訓練にも耐えられないのだから、最初から落としてしまえば処理は速くなると」
彼自身の口から出たその言葉は、かつての彼の冷徹な合理性そのものだった。
「だが、実際にこの一番下流の窓口で他部署の記録と照合していると、無駄の正体がよく分かる」
アルベルトはペンを取り、手元のメモ用紙に何かの図を描き始めた。
「申請者が同じ書類を各部署へ何度も提出するということは、そのたびに各部署の窓口担当者がそれを一から確認し、手書きで別々の台帳へ転記しているということだ。申請者を落としても、この転記作業と確認の手間がある限り、行政全体の処理速度は絶対に上がらない。むしろ、書類の紛失や転記ミスのリスクを増大させているだけだ」
アルベルトの視点は、もはや「誰を切り捨てるか」という上からの選別には向いていなかった。
彼は今、失敗者の手続きの最前線に立ち、そこにある『手続きの詰まり』そのものをどう切るかを見据えていた。
「……アルベルト様」
私は静かに声をかけた。
「私は、あの夜会であなたが私にしたことを許したわけではありません。今でも思い出すと、胸の奥が冷たくなります」
彼は手を止め、私の顔を見た。
「ですが」
私は彼の手元にあるメモ用紙に目を落とした。
「今のあなたが、申請者の能力不足を疑うより先に、手続きの無駄を疑い、受講者たちの時間を守るための視点を持っていること。……それは、現場の実務官の仕事として、とても正しいと思います」
「……そうか」
アルベルトは微かに目を伏せ、それから手元の書類に確認の印を力強く押し込んだ。
「五名分の申請書類、確かに不備なしと確認した。決裁へ回す。数日中には受理の通知が学院へ届くはずだ」
「ありがとうございます」
私が書類の控えを受け取り、踵を返そうとした時だった。
「係長。よろしいでしょうか」
アルベルトが立ち上がり、奥の席にいる上司へ声をかけるのが聞こえた。
「先ほど処理した、学院からの特別試験課程の申請についてです。同様の申請が今後増えることを見越し、救恤局および基金の初期登録データを、当部署の台帳へ直接複写できる書式の変更案を作成しました。一読をお願いします」
「なんだと? 余計な仕事を作るな、そんなものを各部署が素直に認めるわけが……」
「規定の第三項における特例を適用すれば、管轄を越えずに書式の統一のみで処理の短縮が可能です。今月の超過勤務を二割削減できる計算になります」
私は窓口を離れながら、背後で続くその事務的なやり取りを静かに聞いていた。
彼の提出した小さな改善案が、すぐに王宮全体の制度を変えるわけではない。上司に却下されて終わるかもしれない。
それでも、かつて切り捨てるための数字しか見ていなかった男が、今は一番下の場所から、誰かが前に進むための道を少しでも広げようと行動を始めている。
その事実が、私が手にした五枚の書類の控えを、とても頼もしく感じさせていた。




