第41話 五人だけの再挑戦課程
学院からの「通常課程からこぼれかけている生徒を、少人数だけ試せないか」という打診は、数日のうちに具体的な枠組みとして動き出した。
私のような任期一年の特任講師が、いきなり学院全体の教育方針を変えることなどできない。だからこれは、あくまで私の権限の範囲内で認められた、ごく小規模な実験だった。
学院の運営理事会から提示された条件は、非常に厳しいものだった。
「この『特別試験課程』に対して、学院の正規予算から人員や設備を恒久的に割くことはできません。あくまで外部からの助成による、期限付きの試行とします」
そう記された通達書と共に渡されたのは、王家救恤基金からの助成決定通知だった。
アデライド王妃殿下が後援するその基金は、かつて私が学院の最終実習で抗議者への暫定対応を引き出した際にも動いたものだ。今回の書面に並ぶのは、支援継続の条件だけだった。
『助成は一年間のみとする』
『対象人数は五名に限定する』
『毎月の成果記録の提出を必須とし、客観的な改善が認められない場合は、期間内であっても即時打ち切りとする』
一年という期間と、五人という制限。もしこの実験を一年後も残し、恒久的な制度にしたいのであれば、学院の本体予算に組み込んでもらうか、全く別の財源を確保する仕組みを作らなければならない。
背筋が伸びる思いだった。失敗すれば即座に打ち切られる綱渡りの状態だが、それでも、一度は完全に閉ざされかけた場所に「もう一度試すための道」が繋がったのだ。
翌週、東棟の小さな教室に、私を含めた六人が集まった。
特別試験課程に選ばれた五名の生徒たち。
一番前の席に座っているノエミさんは、少し緊張した面持ちで私の顔を見つめている。
その後ろに座る四人も、皆一様に強張った、あるいは諦めが混じったような暗い目をしていた。
一度の失敗で立ち直れなくなったノエミさん。複数の指示を同時に受けると処理が追いつかずパニックになる生徒。長期間の病気療養から再入学したものの、体力が戻らず通常授業の速度についていけない生徒。実技はできるが、極度の対人恐怖で面接や礼法の試験になると言葉が出なくなる生徒。家が望む進路と本人の得意分野が噛み合わず、何を目指せばよいのか決められない生徒。
彼女たちの背景はバラバラだ。ただ一律に能力が低い「落ちこぼれ」というわけではない。それぞれが違う理由で通常課程の速度から振り落とされ、自分には価値がないと思い込んでいる。
「本日から、この特別クラスを担当するリディア・ハルフォードです」
私は教壇の前に立ち、五人を見渡した。
「このクラスでは、皆さんに同じ正解を出すことは求めません。その代わりに、これを受け取ってください」
私は用意していた五冊の真新しいノートを、一人ひとりの机に配って回った。
かつて私が使っていた『失敗記録帳』。だが、その中身の形式は、五人それぞれで全く違うものに変えてある。
ノエミさんのノートには『どんな小失敗をしたか』と『どうやってその作業に戻れたか』を書く欄を。
同時に複数処理ができない生徒には、失敗そのものではなく『指示を一つずつに分解できたか』を記録する欄を。
体力が続かない生徒には、『今日はどこで限界を感じて、どうやって休む選択をしたか』という身体記録の欄を。
対人場面で声が出なくなるクロエさんには、『話せなかったこと』ではなく『一人なら正確に整理できた情報』を残す欄を。
進路を決められない生徒には、家の期待とは切り離して『苦痛なく続けられた作業』を拾う欄を。
ノエミさんへの指導で私が犯した「自分の成功体験をそのまま他人に押し付ける」という傲慢な間違い。その痛烈な反省から、私は一人ひとりの『何で詰まるか』『何なら続けられるか』を個別に観察し、それぞれに合った記録の型を作ったのだ。
「ここにいる皆さんは、つまずく場所も、怖いと思うことも全員違います。だから、全員が同じやり方で訓練する必要はありません。あなた自身が、自分の足で立てるようになるための方法を、このノートを使って一緒に探していきましょう」
私の言葉に、彼女たちは戸惑いながらも、手元のノートをそっと開いた。
すぐに全員が希望に満ちた顔になったわけではない。それでも、彼女たちの目から「また同じように怒られるのではないか」という怯えが、ほんの少しだけ薄れたように見えた。
初日の短い面談と記録のつけ方の説明が終わり、四人の生徒が教室を出ていった後。
ノエミさんだけが、少し言いにくそうに教壇の前に残っていた。
「どうしたの、ノエミさん。ノートの書き方で分からないところがあった?」
「いえ、そうじゃないんです。あの……」
ノエミさんは、自分のノートの表紙を両手でぎゅっと握りしめていた。
「私……この特別クラスができたのって、私が昨日の試験で逃げずに残れたからですよね。私が、この実験の『成功例』みたいに扱われているんじゃないかって……」
彼女の視線が揺れている。
周囲からの期待を背負わされ、それに失敗すればまた見捨てられる。彼女の根本にある恐怖が、この「試験課程の中心ケース」という立場によって再び刺激されているのだ。
「ノエミさん」
私は教壇から降りて、彼女と同じ目の高さになるように少し腰を落とした。
「あなたは、この制度の広告塔ではないわ。私があなたを、自分の指導が正しいと証明するための見本にするようなことは絶対にしない」
「でも、もし私がまた逃げ出したら……この特別クラスは打ち切られて、他の四人の居場所もなくなってしまうんじゃ……」
「そうならないように私がいるのよ」
私は彼女の強張った手に、そっと自分の手を重ねた。
「それにね。私は、ここにいる五人全員が、必ずこの学院を素晴らしい成績で卒業できるようになるとは思っていないの」
「え……?」
ノエミさんが、驚いたように目を見開いた。
「勘違いしないでね、見捨てると言っているわけじゃないわ。ただ、この学院で実務を学ぶことだけが、あなたたちの人生の『成功』とは限らないってこと」
私は、自分が王宮の実務官として見てきた現場を思い出しながら言った。
「休む方法を覚えることかもしれないし、別の場所で生きていくための準備をすることかもしれない。あなたたちが自分を否定せずに、次の道を選べるようになること。それが私にとっての成功よ。だから、あなたは他の誰かのためではなく、あなた自身の課題だけに向き合えばいいの」
ノエミさんはしばらく私の顔を見つめ、やがて、強張っていた肩の力をふっと抜いた。
「……はい。私、自分のやり方を見つけます」
彼女が静かに、けれど自分の意思で頷いたのを見て、私はようやく小さく息を吐き出した。
まだ始まったばかりだ。一年後、この五人がどうなっているか、誰にも保証はできない。手探りの日々が続く。
その日の午後。
私は特別試験課程の正式な始動に伴う、外部助成金の受け入れ承認や、王宮からの特任講師としての業務報告書を提出するため、王宮の行政管理部へ足を運んでいた。
フェリシア様が所属する政策立案の華やかな上層階ではない。私自身が三年間働いてきた現場とも少し違う、各種申請書や予算の手続きだけを機械的に処理する、薄暗く埃っぽい下級の書類受付窓口だ。
「――アウレリア学院からの、救恤基金助成に伴う特別試験課程の受入申請書と、名簿五名分ですね」
窓口のカウンター越しに、山積みにされた未処理の書類の奥から、一人の事務職員が声をかけてきた。
ひどく事務的で、感情の抜け落ちたような平坦な声。
私はその声の響きに、心臓が小さく跳ねるのを感じた。
「内容を確認します。……記載漏れなし。該当者の事前登録状況との照合も……問題ありません」
カウンターの奥で、無地の地味な事務服を着て、黙々と書類に確認印を押していくその横顔。
見間違えるはずがなかった。
「処理番号は四百二番になります。控えをお渡ししますので、お待ちを」
彼は顔を上げ、私へ書類の控えを差し出した。
その瞬間、彼の動きがぴたりと止まった。
差し出された書類を受け取る私の顔と、それを差し出した彼の顔が、窓口の小さな隙間越しに真正面から向き合う。
「……リディア」
微かに目を見開いたその男――アルベルト・グレイヴは、手に持った印箱をカタリと鳴らした。
四年前。私の実務の遅さを「時間をかける価値がない」と切り捨て、王宮の夜会で一方的に婚約を破棄した、かつての若きエリート分析官。
自分が原案作成に関わった制度の不備によって失脚し、改革の表舞台から完全に姿を消した彼が。
今、ノエミさんたち「失敗した者たち」の再挑戦の手続きを処理する、王宮で最も下層の事務席に座っていた。




