第40話 戻ってきた
学院の小試験の会場。冷ややかな空気が漂う中、ノエミさんは完全に言葉を失い、椅子から腰を浮かせかけていた。
「改定後の数字で計算し直した場合の数値を、今ここで答えなさい」
外部の監査官から投げられた、予定にない追加の問い。完璧に記憶していたはずの知識が通用せず、彼女の頭の中は真っ白になっているはずだ。
パニックと、失敗して見捨てられるという恐怖。彼女は今まさに、この場から逃げ出そうとしていた。
教室の最後列で見守っていた私は、無意識に一歩踏み出しそうになるのを、固く握りしめた拳でどうにか抑え込んでいた。
今ここで私が「落ち着いて、まずは〇〇から計算しなさい」と助け船を出せば、彼女のパニックは収まるだろう。でも、それでは駄目なのだ。私が答えを与え続ければ、彼女は私がいなければ失敗から立ち直れない人間のままになってしまう。
かつてユリウス教官が、私に正解を教えず、自分で言葉にするまでじっと待ち続けてくれたように。
私は、安全な教室での『失敗する練習』を繰り返してきた彼女の力を信じ、ただ沈黙して待った。
ノエミさんの震える手が、スカートの布地をぎゅっと掴んだ。
彼女は出入り口へと向けかけていた視線を、もう一度、ゆっくりと監査官の方へ戻した。
逃げれば、そこで本当にすべてが終わる。でも、教室での訓練で何度も書き込んできた『戻れた方法』の記憶が、彼女の足を床に縫い留めているように見えた。間違えても、見捨てられない。失敗は、自分で選べばやり直せる。
数秒の、ひどく長く感じられる葛藤の後。
ノエミさんは、ふっと息を吐き出し、再び椅子に深く腰を下ろした。
「……申し訳ありません」
彼女の声は微かに震えていたが、その目は逃げていなかった。
「改定後の正確な数値は、私は存じておりません。……ですが、改定の趣旨が関税率の一律引き上げであったと仮定し、基礎数値に暫定の係数を掛けた『概算』であれば、今ここでお出しできます。計算のための少しの時間をいただけますでしょうか」
監査官は少し驚いたように眉を上げたが、やがて短く頷いた。
「よかろう。やってみなさい」
ノエミさんは手元の紙にペンを走らせた。その手つきはいつもの滑らかさには程遠く、何度も止まっては修正を繰り返していた。それでも、彼女は途中でペンを投げ出すことなく、最後まで計算をやり遂げ、一つの数値を監査官に提示した。
もちろん、それは正確な正答とは言い難い数字だった。時間もかかりすぎている。
「……以上だ。退出してよい」
監査官の平坦な声で、ノエミさんの小試験は終わった。
放課後の東棟の空き教室で、私はノエミさんと向かい合っていた。
彼女の手元には、採点表が置かれている。結果は決して褒められたものではなかった。全体での順位も中腹より下に沈んでいる。
「……点数、低かったです」
ノエミさんは俯き加減で呟いた。以前の彼女なら、この結果を見ただけで泣き出し、「私は無能だ」と自己否定の言葉を並べていただろう。
でも今の彼女は、悔しそうに唇を噛んでいるだけだった。
「ええ。追加の問いにすぐ答えられなかったし、概算の計算も少し手間取ったわね。でも、ノエミさん」
私は彼女の前に、真新しい失敗記録帳を差し出した。
「あなたは今日、逃げなかった。監査官から問い詰められたあの瞬間、あなたは『分からないと認めて、今出せる代替案を提示する』という手順を自分で選んで、最後まで席に残りきったわ」
私は彼女の顔を覗き込んだ。
「それは、高得点を取ることよりも、ずっと価値のある『復帰』よ」
ノエミさんはノートを見つめ、やがて小さく頷いた。
「……はい。あの時、すごく怖かったんですけど。でも、ここで逃げたら、また同じことの繰り返しになるって思ったら、なんだか足が動かなくて」
彼女が自分の意思で残った。私は、彼女を『成功させた』わけではない。私がやったのは、ただ「失敗してもあなたの価値は減らない」という安全な場を作り、彼女が自分で戻ってくるのを信じて待つことだけだった。
「よく頑張ったわね」
私が微笑むと、ノエミさんは少しだけ照れたように俯いた。
「逃げずに盤面に残ったな」
教室の入り口から、ユリウス教導官の声がした。
彼は中には入ってこず、扉の枠に寄りかかったまま、ノエミさんを一瞥した。
「昨日までとは違う。失敗への耐性が、わずかだが形になり始めている」
教官はそれだけ告げると、静かに教室を離れた。
それは、同僚の実務家としての静かな承認だった。私のやり方が、確かに彼女を変え始めている。
だが、特任講師としての最大の報酬は、その翌朝にやってきた。
朝の光が差し込む準備室で、私が本日の業務の確認をしていると、コンコン、と控えめなノックの音がした。
「入ってちょうだい」
扉を開けて入ってきたのは、ノエミさんだった。
彼女は昨日の小試験の低い点数が書かれた答案用紙と、私が渡した失敗記録帳を両手でしっかりと抱えていた。
「おはようございます、ハルフォード先生」
彼女の目には、もう昨日のような怯えはなかった。代わりに、静かだが確かな熱が宿っていた。
「昨日の試験で間違えた関税率の計算、正しい数字でもう一度やり直したいです。……教えていただけますか」
私は目を見開いた。
失敗を極度に恐れ、ミスを見せつけられることを嫌悪していた彼女が。
低い点数の答案用紙を自分から持って、昨日つまずいた場所へ、自分の足で戻ってきたのだ。
「……ええ、もちろんよ」
私は立ち上がり、彼女を机の隣へ招いた。
完璧な天才を育てることは私にはできない。でも、一度転んだ人が、翌日またここへ戻ってこられるようにすることはできる。
それが、私がこの学院で教える側として得た、最初の具体的で確かな成果だった。
その日の午後、私は学院の運営棟にある教務室に呼び出された。
教務担当の職員が、分厚い名簿の束を机の上に広げて私を見た。
「ハルフォード特任講師。ノエミ・ベルク嬢の昨日の小試験での粘り、そして本日の自主的な訓練の様子を、複数の教員が確認しています。……見事な指導ですね」
「ありがとうございます。ですが、あれは彼女自身が逃げずに選んだ結果です」
「ええ。ですが、あのまま通常課程に置いていれば、彼女は間違いなく重圧に潰れて自主退学を選んでいたでしょう」
担当職員は少しだけ表情を硬くし、名簿の一角を指で叩いた。
「単刀直入に申し上げます。彼女のように基礎的な能力はありながら、一度の失敗や周囲の速度についていけず、通常課程からこぼれかけている生徒が、他にもおります」
「他にも……」
「試験的な枠組みで構いません。あなたの行っているその再教育の指導に、ノエミ嬢を含めて『まず五人だけ』受け入れてみてもらえないでしょうか」
それは、私の個人指導が、学院の『制度実験』へと広がることを意味していた。
かつて私自身が落ちこぼれだったこの学院で、私と同じように立ち上がれずにいる生徒たちを掬い上げる仕組みが作れるかもしれない。
しかし、私は単純に喜ぶことはできなかった。
「五人……」
私は無意識に、鞄の中にある失敗記録帳に触れた。
ノエミさん一人と向き合うだけでも、私は自分の成功体験を押し付けて彼女を壊しかけた。五人に増えれば、当然、彼女たちの『恐怖の形』や『失敗の型』も五通りあるということだ。
全員に同じ方法が通用するわけがない。人数が増えれば、一人に付きっきりになるわけにはいかず、全く別の難しさが生まれる。
「……承知いたしました。ですが、少しだけお時間をいただけますか。受け入れの体制と、彼女たちに合った訓練計画を一から練り直す必要がありますので」
「ええ、構いません。期待していますよ」
教務室を出た私は、窓から中庭を見下ろした。
『努力すれば何でもできる』わけじゃない。でも、『今できない』を理由に『永遠にできない』と決めつけない場所を作る。
特任講師としての本当の戦いは、ここから始まるのだと、私は静かに身を引き締めた。




