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婚約破棄された落ちこぼれ令嬢は、鬼教官と失敗記録帳で百二十七位から人生を立て直す  作者: 他力本願寺


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第39話 失敗する練習

昨晩、ユリウス教導官から承認を得た新しい訓練計画書を手に、私は東棟の小さな空き教室に立っていた。


 私の目の前には、ノエミ・ベルクさんが座っている。昨日の今日でまだ警戒心が解けていないのか、彼女は膝の上で両手を固く組んで、少しだけ身を縮ませていた。


「ノエミさん。今日から、あなた用の特別な訓練を始めます」


 私は彼女の机に、昨日まで使っていた私の古い失敗記録帳ではなく、真新しいノートを開いて置いた。


「今日の目的は、正解を出すことではありません。『安全に失敗して、そこから戻ってくる』練習をします」


「失敗する練習……?」


 ノエミさんは、信じられないものを見るように目を丸くした。


「そんなの、無駄じゃないですか。私は間違えないようにしたいのに、わざと間違える練習をするなんて……意味が分かりません」


 彼女の言う通りだ。記憶力が高く、普段から優秀な成績を出せる彼女にとって、「失敗」とは忌むべきものであり、全力で避けるべき汚点なのだ。だからこそ、彼女は失敗した瞬間に自分の価値がなくなったと感じてパニックになってしまう。


「実務の現場で、一度も間違えない人間はいません。どれほど優秀な人でも、必ず想定外の事態に直面して判断を誤る時は来ます。その時に、頭が真っ白になって逃げ出してしまうのが、一番の致命傷になるの」


 私はノートの真新しい罫線を指差した。


「このノートには、私がやっていたような『間違えた項目』だけを書き出すことはしません。代わりに、『どうやって戻れたか』『誰に助けを求めたか』『最後まで続けられたか』を記録する欄を作りました。失敗しなかったことではなく、失敗した後にあなたが何を選んだかを評価します」


 ノエミさんはまだ納得がいかない様子で、少し不満げに唇を尖らせていた。能力が高いからこそ、私の意図がすぐには腑に落ちないのだろう。無理に感動させる必要はない。実感を伴わない言葉は、いざという時に何の役にも立たないと知っているから。


「じゃあ、始めるわよ。まずはこの資料を読んで、書かれている数字の合計を計算してちょうだい」


 私は彼女に、王宮の古い予算案を模した書類を渡した。


 ノエミさんは無言でペンを取り、流れるような手つきで計算を始めた。彼女の処理能力は確かに高い。フェリシア様には及ばないかもしれないが、私よりはずっと速く正確に数字を追っていく。


 だが、その資料には、私が意図的に抜いておいた「数ページの欠落」があった。


 しばらくして、ノエミさんのペンの動きがピタリと止まった。


「……あの。これ、数字が合いません。総合計と、各部署の支出の合算が違うんです」


 彼女の顔に、サッと焦りの色が浮かぶ。


「私の計算が間違っているんでしょうか。でも、何度やり直しても……」


 彼女がパニックに陥りかけるのを見て、私は思わず口を挟みそうになった。


「それはね、資料の三ページ目が最初から抜けているからよ」と。


 私が答えを教えてしまえば、彼女の不安は一瞬で解消される。


 けれど、言葉を口に出す寸前、教室の隅で監督役として無言で立っているユリウス教官の姿が視界の端に入った。教官は何も言わない。ただ、私とノエミさんのやり取りを静かに観察しているだけだ。


 私はハッとして、開きかけた口を固く結んだ。


 いけない。ここで私がすぐに答えを与えてしまえば、彼女は「先生が正しい状況を与えてくれなければ、自分では解決できない」と思い込んでしまう。それは、かつて婚約期間中にアルベルトが私にしていたことと同じだ。先回りして障害を取り除き、相手の考える機会を奪ってしまう行為。


 私は一呼吸置き、自分の小失敗を心の中で修正してから、ノエミさんに向き直った。


「ノエミさん。私は答えを教えません。手元の資料の数字が合わない時、あなたはどうやってそこから戻りますか?」


 ノエミさんは戸惑い、焦燥に駆られた目で私を見た。


「どうするって……私には、これ以上どう計算すればいいのか……」


「黙ってこのまま時間が過ぎるのを待つか。それとも、資料が不足していると私に報告して、確認を要求するか。選んでちょうだい」


 選択肢を与えられたノエミさんは、苛立ったように眉を寄せた。彼女のプライドが、自分の計算ミスではないと認めること、あるいは大人に助けを求めることに抵抗しているのが分かった。


 数秒の沈黙の後、彼女は震える声で言った。


「……私の計算は間違っていないはずです。資料に欠落があるのだと思います。確認してください」


「はい、よく言えました。その通り、三ページ目が意図的に抜いてありました」


 私が抜いていたページを渡すと、ノエミさんはポカンとした後、明らかに怒りの混じった目を向けた。


「わざと、ですか……? そんな意地悪みたいなこと……」


「そうよ。じゃあ、今のをノートの『戻れた方法』の欄に書いて。『黙って固まらずに、資料の不備を報告した』って」


 ノエミさんは悔しそうに唇を噛み締めながら、ノートに文字を書き込んだ。


 それが、彼女の最初の「安全な失敗と復帰」の記録だった。


 その後も、私は手を変え品を変え、彼女に小さなエラーをぶつけ続けた。


 複雑な外交辞令の暗唱の中に、わざと発音が似ていて意味が違う単語を混ぜておく。


 ノエミさんが気づかずに読み進め、途中で意味の通らなさに気づいて言葉に詰まる。息が止まり、顔面が蒼白になる彼女。


 私は何も言わない。ただ待つ。


 ノエミさんはドレスの裾を強く握りしめ、震える声で絞り出した。


「……分からない単語があります。もう一度、前の文から読み直します」


「ええ。続けて」


 彼女の恐怖が消えたわけではない。ノートに『戻れた方法』を書き込む手は、いつも少し震えていた。何度もわざとつまずかされ、そのたびに自分で復帰の言葉を選ぶ。それは、常に完璧であることを求められてきた彼女にとって、ひどく不格好で屈辱的な時間だったはずだ。


 それでも、彼女は途中で教室を逃げ出すことはしなかった。


「間違えても、見捨てられない」「答えに詰まっても、自分で選べばまた動き出せる」。


 その事実が、彼女の中に少しずつ、確かな『失敗への耐性』として蓄積されているのが分かった。


 ユリウス教官は、最後まで私たちの訓練に口を挟まなかった。


 訓練が終わった後、私の元へ歩み寄ってきた彼は、短い講評だけを告げた。


「介入のタイミングをギリギリで堪えたな。教える側が我慢できなければ、生徒の足腰は育たない」


「はい。……思わず、助け船を出しそうになりました」


「自覚があるならいい。問題は、この温室の訓練ではなく、本番のプレッシャーの中で彼女がどう動くかだ」


 教官の言う通りだった。


 私が用意した安全な教室の中でなら、ノエミさんは戻ってこられるようになった。だが、見知らぬ他人の前で、本当に点数のつく場面で、彼女は同じことができるのか。


 その答えを試す機会は、数日後にやってきた。


 今日は、学院の定期的な小試験の日。外部から招かれた監査官が同席し、生徒一人ひとりの実務対応能力を口頭試問で評価するという、緊張感の張り詰めたものだった。


 試験会場の教室の最後列で、私は特任講師として静かに見学していた。


 ノエミさんの順番が来た。


 彼女は教壇の前に立ち、監査官からの質問に淀みなく答えていく。彼女の記憶力と語学力は、やはりこの学年でもトップクラスだ。監査官も満足げに頷き、順調に試験は終わるかに見えた。


「では、最後の質問だ」


 監査官が手元の書類をめくり、予定にはなかった追加の質問を投げかけた。


「先ほどの隣国との貿易協定において、関税率の計算に用いた特例条項だが。あれは去年の秋に改定されているはずだ。改定後の数字で計算し直した場合の数値を、今ここで口頭で答えなさい」


 完全に、想定外の問いだった。


 ノエミさんの肩が、ビクッと大きく跳ねた。


 彼女の顔から一瞬にして血の気が引き、唇がわなわなと震え始める。記憶にない数字。完璧にこなしてきた試験の最後に突きつけられた、自分の無知による予定外の失敗。


「あ……ええと、それは……」


 言葉が出ない。視線が激しく泳ぎ、彼女の呼吸が浅く速くなっていく。


 私は教室の後ろから、祈るような気持ちで彼女を見つめていた。


 助けに行くことはできない。ここで私が口を出せば、彼女は一生「誰かがいなければ戻れない」ままだ。


 沈黙が痛いほどに長引く。監査官が不審げに眉をひそめ、手元の採点表にペンを下ろそうとした。


 ノエミさんの目に、決定的な絶望の色が浮かんだ。


 彼女は耐えきれなくなったように、椅子から腰を浮かせた。逃げる。この場から立ち去って、また自分を全否定する暗闇の中に閉じこもろうとしている。


「ノエミさん」


 心の中で、私は彼女の名前を呼んだ。声には出さない。呼び止める権利は、私にはない。


 彼女が、完全に立ち上がりかけた。


 私はただ、自分の作った訓練の成果を信じ、彼女が自らの足で思い止まり、この盤面に戻ってくるのを、じっと待ち続けていた。

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