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婚約破棄された落ちこぼれ令嬢は、鬼教官と失敗記録帳で百二十七位から人生を立て直す  作者: 他力本願寺


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第38話 仕事ではない食事

「安全に失敗して、そこから戻る訓練」


 私は自室の机で、新しく書き上げたノエミさん用の訓練計画書を前に、小さく息を吐き出した。


 彼女の抱える「見捨てられる恐怖」を取り除くには、まず『間違えても怒られない、価値が減らない場所』を体感してもらうしかない。だから、次からの訓練では正解を出すことを目的とせず、あえて小さな失敗を意図的に起こさせ、そこから彼女自身が修正して戻ってくる過程そのものを評価の対象にする。


「よし。まずはこれを……」


 私は計画書を鞄にしまいながら、ふと手が止まった。


 この新しい案を、ユリウス教導官に見てもらわなければならない。それは特任講師としての当然の業務だ。


 ただ、昨夜から私の胸の奥には、彼と「仕事以外の話」もしてみたいという、小さな熱がくすぶり続けていた。


 教官と生徒という枠組みから外れ、一人の女性として、彼と同じ目線で言葉を交わしてみたい。


「……食事に、誘ってみようかしら」


 私は鏡の前で、自分の少し赤い頬を両手で挟んだ。


 学院生だった頃の私なら、彼に認めてもらうことに必死で、そんな私的な誘いをする余裕なんて微塵もなかった。でも今は違う。失敗を恐れて立ち止まるより、行動して結果を確かめる方がいい。


 過剰な恋愛作戦会議をするつもりはない。ただ、自然に、かつ失礼のないように誘うだけだ。


「ヴァイス教導官。本日の業務後、もしよろしければ……」


 私は鏡の中の自分に向かって、何度か発声の練習をした。


 翌日の昼下がり。


 教員室で、私は一人で書類整理をしているユリウス教導官の背中を見つけた。


 私は小さく深呼吸をして、彼の横へ歩み寄った。


「ヴァイス教導官。少し、よろしいでしょうか」


「なんだ、ハルフォード特任講師。新しいクラスの件か?」


 彼は顔を上げ、いつもの隙のない実務家の目で私を見た。


「ええと、その件も含めてなのですが……」


 私は背筋を伸ばし、昨晩練習した通りの、なるべく落ち着いたトーンで切り出した。


「本日の業務終了後、もしご予定が空いていらっしゃいましたら、王都のレストランでご一緒にお食事でもいかがかと思いまして。少し、落ち着いた場所で意見を交わしたい件もございますので」


 言えた。


 私は少しだけ緊張しながら、彼の返答を待った。


 教官は私の言葉を聞くと、少しだけ眉を寄せ、手元の予定帳を確認した。


「……今日の夕刻か。構わない。外のレストランを使うということは、学院内では話しにくい、機密性の高い内容ということだな」


「えっ?」


「ノエミ・ベルクの件なら、彼女の成績不振の背後に、家庭内の複雑な事情や、他の生徒からの悪質な干渉が絡んでいる可能性があるのか? だとしたら、確かにここで話すより、人目のつかない店を選んだ君の判断は正しい」


 教官は淀みなくそう結論づけ、私の顔を真剣な目で見つめてきた。


 私は内心で、頭を抱えて机に突っ伏したい衝動に駆られた。


 違う。そうじゃない。


 私の誘い方が実務的すぎたせいで、彼は完全に『外部での機密性の高い業務打ち合わせ』だと解釈してしまったのだ。


(ああもう、私のバカ……! もっと分かりやすく「私的な食事」って言えばよかったのに……!)


 私は心の中で激しく自分にツッコミを入れながらも、今さら「違います、ただ一緒にご飯を食べたかっただけです」と言い出す勇気はなく、引きつった笑顔で頷くしかなかった。


「は、はい。その……少し、込み入ったご相談がありまして」


「分かった。では、定時後に西門で落ち合おう」


 夕刻。


 王都の少し静かな通りにある、落ち着いた雰囲気のレストラン。


 向かい合わせの席に座った私たちは、完全に『仕事の打ち合わせ』の空気を纏っていた。


「――というわけで、彼女の背後に悪質な干渉や家庭の問題があるわけではありません。私が彼女を、昔の私と同じだと勝手に決めつけて、恐怖を与えてしまっただけです」


 私は、昨日用意した『安全に失敗する』ための新しい訓練計画書をテーブルの上に広げながら、正直に自分の非を認めた。


 教官は私の説明を聞きながら、出されたコーヒーカップを手に取り、無言で計画書に目を通していく。


 その時、私はふと、彼の手元に視線を引き寄せられた。


 教官は、コーヒーカップの取っ手を指で摘むのではなく、カップの胴体を包み込むようにして持っていたのだ。


 学院では常に完璧な姿勢を崩さない彼が、私的な食事の場では少しだけ無造作な、ある種の不器用さを感じさせる仕草を見せている。


 その小さなギャップに、私は不意に心臓がトクンと鳴るのを感じた。


 先生と生徒という関係のままでは、絶対に気づけなかった彼の私生活の癖。私が今、彼と同じ目線でテーブルを挟んでいるからこそ見えた、ほんのわずかな隙。


「……なるほど。意図的な小失敗を組み込み、復帰の過程を評価する。手段としては悪くない」


 教官が計画書から視線を上げ、カップをことりとソーサーに置いた。


「だが、ハルフォード。この訓練における『失敗の許容量』と『成功の評価基準』はどう設定するつもりだ? ただ失敗させて褒めるだけでは、彼女の実務能力は伸びないぞ」


 私の甘い感傷を断ち切るように、彼は実務家としての鋭い質問を投げてきた。


 私が考えた案をすべて彼が直してしまうのではなく、危険な部分や評価の甘い部分だけを確認し、私自身に言語化させる。同僚としての、対等な意見交換だ。


「はい。ですから、失敗帳には『間違い一覧』だけでなく、『どうやって戻れたか』を具体的に記録する新しい欄を設けます。点数ではなく、その復帰手順の正確さを評価基準にするつもりです」


「……いいだろう。それで進めてみろ」


 教官は短く頷き、私の案を正式に承認した。


 レストランを出て、学院の寮へと向かう夜道。


 私は彼の少し後ろを歩きながら、今日の自分の不器用な誘い方を密かに反省していた。


(次誘う時は、絶対に『仕事の話は抜きで』って、はっきり言おう)


 すぐに何度も誘って、しつこい相手だと思われるのは避けたい。焦る必要はないのだ。私たちは今、こうして対等に意見を交わせる場所に立っているのだから。


「明日から、ノエミの新しい訓練を開始するんだな」


 前を歩く教官が、振り返らずに言った。


「はい。明日の小試験で、彼女にわざと小さな失敗をさせる仕掛けを用意します」


「彼女が途中で逃げ出さず、最後まで席に残りきれるか。……特任講師としての、君の最初の真価が問われるな」


「逃げさせません。私が、彼女が戻ってこられる場所を作りますから」


 私は力強く宣言し、夜空を見上げた。


 恋愛の小さな失敗は、また次に取り返せばいい。明日はまず、私が責任を負う生徒のための、新しい再挑戦の第一歩だ。

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