第37話 誰を見ていたのか
王宮からあてがわれた簡素な自室で、私はランプの灯りを頼りに、机の上に広げた二つの帳面を見つめ続けていた。
一つは、私が学院に入学した四年前、個別訓練室で泣きながら三十七個のミスを書き出した『失敗記録帳』。
もう一つは、今日、ノエミさんに恐怖を与えて逃げ出させてしまった『指導記録』。
「……同じ失敗の記録なのに」
私は独り言を呟きながら、ペンの後ろでこめかみを軽く叩いた。
四年前の私は、アルベルトに婚約を破棄され、実務能力も最下位で、自分の価値はゼロなのだと完全に絶望していた。もう失うものは何一つなかった。
だから、自分の「何もできない」という曖昧な絶望が、帳面の上で「視線を落とした」「返答が遅れた」という具体的な作業の項目に切り分けられた時、私はひどく安心したのだ。直せるものがある。作業をこなせば、また前に進めるのだと。
私はその「安心感」を、ノエミさんにも与えられると信じて疑わなかった。
だが、ノエミさんは私とは違う。
彼女は優秀で、記憶力が高く、あの分厚い外交教本を暗唱できるだけの力を持っている。彼女は絶望のどん底からスタートした私とは違い、最初から周囲に『できるはずだ』と期待されている状態にいるのだ。
その状態にある彼女にとって、自分のミスが一つずつ文字にして可視化されていくことは、どういう意味を持つのだろう。
「……減点、だわ」
私はハッとして、ペンを置いた。
ノエミさんにとっての失敗は「次に直せばいい課題」ではなく、「自分の価値が削り取られていく証明」だったのだ。
私は、自分が救われたという成功体験に酔いしれていた。この方法なら誰でも救えるはずだと高を括り、目の前で怯えていたノエミさんの心の動きに、全く寄り添えていなかったのだ。
「私は、ノエミさんを見ていなかった。ノエミさんの中に、昔の哀れな自分を重ねて、それを救済するごっこ遊びをしていただけだわ……」
その残酷な事実に気づいた瞬間、背筋に冷たい汗が伝った。
ユリウス教官が言っていた『教育における一番の傲慢』の意味が、ようやく痛いほど理解できた。
翌朝、私は足早に教員室へ向かった。
朝の静かな教員室には、すでにユリウス教導官の姿があった。彼は窓際で書類を整理しながら、私が入室するなり、視線も上げずに短く問いを投げかけてきた。
「彼女本人と、昔の君。……君は昨日、どちらを見て指導した?」
結論を押し付けるのではなく、私自身に言語化させるための、鋭く的確な一問。
「昔の私です」
私は誤魔化すことなく、はっきりと答えた。
「私は自分の成功法則を彼女に押し付けて、彼女が何を怖がっているのかを全く観察していませんでした」
教官は書類から手を放し、私を真っ直ぐに見た。
「それに気づけたなら、君が次にするべきことは決まっているな」
「はい」
私は深く頷いた。答えを教えてもらう必要はない。特任講師として私がやるべきことは、もう私自身の頭の中に明確にあった。
昼休み。私は図書室の奥の目立たない席で、一人で本を読んでいるふりをしているノエミさんを見つけた。
私が近づいていくと、彼女はビクッと肩を震わせ、手元の本で顔を隠すように俯いてしまった。
「ノエミさん、少しだけいいかしら」
私は教員としての権威を振りかざすような真似はせず、彼女の向かいの席に静かに腰を下ろした。
「あの……私、昨日の続きは……」
「授業の続きをするつもりはないわ。今日は、あなたに謝りに来たの」
「え……?」
ノエミさんが、驚いたように顔を上げた。
「昨日は本当にごめんなさい。私があなたにやらせた方法は、私がかつてやってみて上手くいった方法だったの。だから、あなたにも絶対に合うはずだって、勝手に思い込んでしまっていた」
私はテーブルの上に両手を置き、真っ直ぐに彼女の目を見た。
「あなたは私じゃないのに。あなたがどう感じるかを無視して、怖い思いをさせてしまって、ごめんなさい」
ノエミさんは、信じられないものを見るような目で私を見つめていた。教官という立場の人間が、一人の生徒に向かって自分の非を認め、頭を下げているのだから無理もない。
「……先生は、間違っていません」
しばらくの沈黙の後、ノエミさんがぽつりと呟いた。
「悪いのは私です。教えられた通りにできない、無能な私がいけないんです」
「どうしてそう思うの? あなたは教本をあんなに正確に暗記できていた。能力が低いわけじゃないわ」
「でも……」
ノエミさんは、テーブルの上で両手をぎゅっと握りしめた。その指先が白く見え、彼女の抱える恐怖の深さを物語っていた。
「私、小さい頃から言葉を覚えるのが得意で、家族にも、家庭教師にも『優秀だ』って期待されてきました。……でも、だからこそ、少しでも間違えたり、つまずいたりすると、周りの大人の顔からスッと温度が消えるんです」
彼女の声は、微かに震えていた。
「『なんだ、こんなこともできないのか』って。がっかりされた瞬間に、私に対する期待も、私の価値も、全部なくなって見捨てられてしまうような気がして……それが、すごく怖いんです」
それが、彼女の抱える本音だった。
失敗そのものが嫌なのではない。失敗した瞬間に、自分に注がれていた期待が反転し、「見捨てられる」という恐怖。
だから、私が一つ一つのミスをノートに書き留める行為は、彼女にとって「あなたが私に見捨てられる理由のリスト」を突きつけられているように感じられたのだ。
「……話してくれて、ありがとう」
私は彼女の握りしめた手に、そっと自分の手を重ねた。
「ノエミさん。私はあなたを見捨てないわ。あなたが百回発音を間違えたとしても、あなたの価値が減るなんてことは絶対にない。それだけは約束する」
「……」
ノエミさんは私の顔をじっと見つめ、こらえきれないようにポロポロと涙をこぼした。
彼女が完全に心を開いて、すべての恐怖を克服したわけではない。それでも、彼女の閉ざされていた心に、対話のための小さな入り口ができたのは確かだった。
準備室に戻った私は、新しい白紙のノートを広げた。
反復回数を増やしたり、課題を優しくしたりするだけでは、ノエミさんの恐怖は消えない。
彼女に必要なのは「間違えないための訓練」ではない。「失敗しても、居場所が消えないという経験」だ。
「安全に失敗して、そこから自分で戻る……」
私は羽ペンを走らせ、彼女のための全く新しい訓練の仮説を立て始めた。正答を求めるのではなく、小さな失敗をわざと起こさせ、それを修正する過程そのものを評価する仕組み。
まだ完全な解決策ではない。でも、今度は「昔の私」ではなく、間違いなく「今のノエミさん」を見て作っている計画だった。
ペンを置き、ふと窓の外を見ると、夕暮れの空が中庭を赤く染めていた。
私は小さく息を吐き出し、背もたれに体を預けた。
教えるということは、こんなにも難しく、そして責任の重いことなのか。
「……ヴァイス教導官も、昔の私にこうやって向き合ってくれていたのね」
私は、あの厳しいけれど決して私を見捨てなかった人の顔を思い浮かべた。
彼に、今日の報告をしなければならない。私が気づいたこと、そしてこれから試そうとしている新しい仮説について。
けれど、ただの仕事の報告ではなく。
「仕事が終わったら、少しだけ……私的なお話も、してみたいわ」
自分の口からこぼれた呟きに、私は少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
彼と、同僚としてではなく、一人の人間として、もっといろんなことを話してみたい。
その気持ちが、以前の「認めてほしい」「褒めてほしい」という甘えとは違う、確かな熱を帯びて私の胸の奥に根付き始めていることを、私ははっきりと自覚していた。




