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婚約破棄された落ちこぼれ令嬢は、鬼教官と失敗記録帳で百二十七位から人生を立て直す  作者: 他力本願寺


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第36話 私に効いた方法が、彼女を壊す

学院の東棟にある小さな空き教室で、私の特任講師としての最初の授業が始まった。


 教壇ではなく、二つの机を並べただけの簡素な空間。私の隣には、昨日中庭で泣いていたノエミ・ベルクさんが緊張した面持ちで座っていた。


「まずは、昨日あなたが途中でつまずいてしまった、隣国の大使への外交挨拶の暗唱から始めましょうか」


 私は声をできるだけ柔らかくして、彼女の前に白紙のノートを置いた。


「間違えても大丈夫よ。ただ、どこでどんな風に間違えたかを、このノートに記録していくの。失敗を具体化して、そこだけを反復して直す。そうすれば、誰でも必ずできるようになるわ」


 私が四年前、ユリウス教官から教わった『失敗記録帳』の方法だ。あの地道な反復が、どん底にいた私を救い、王宮の実務官として働けるようになるまで育ててくれた。この私に効いたのだから、記憶力の高い彼女ならもっと劇的な効果が出るはずだ。私はそう信じて疑わなかった。


 最初のうち、ノエミさんは素晴らしい集中力を見せた。


 彼女の語学の才能は本物だった。私が発音のコツを一つ教えると、すぐにそれを吸収し、正確なイントネーションで文章を紡いでいく。


 しかし、中盤の長い敬称の羅列に差し掛かった時、彼女は再び一つの単語を噛んでしまった。


「あ……」


 彼女の肩がビクッと跳ねる。


「大丈夫よ、止まらなくていいわ。今の『侯爵』という単語の末尾ね。ノートに書いておくから、後でそこだけもう一度やり直しましょう」


 私は彼女の失敗を客観的な事実としてノートに書き込んだ。決して怒っているわけでも、呆れているわけでもない。ただ直すべき箇所を可視化しただけだ。


 だが、そのノートの文字を見た瞬間、ノエミさんの顔からスッと血の気が引くのが分かった。


「はい……すみません」


「謝らなくていいのよ。失敗は直すための材料なのだから。さあ、続きを」


 私は彼女を励まし、暗唱を再開させた。


 しかし、そこからノエミさんの様子が明らかにおかしくなり始めた。


 さっきまで滑らかだった発音が硬くなり、覚えているはずの単語までつっかえるようになる。彼女が間違えるたびに、私は「ここの接続詞ね」「ここは息継ぎのタイミングよ」と、直すべき具体的な箇所をノートに書き足していった。


 そのリストが増えていくたびに、ノエミさんの声はどんどん小さく、震えるようになっていった。


「おかしいわね。少しペースが速すぎたかしら」


 私は彼女の様子を見て、反復の回数を減らす提案をした。


「じゃあ、この長い一文は後回しにして、最初の一行だけを確実にして……」


「ち、違います。私……」


 ノエミさんは、私の手元にあるノートを、まるで恐ろしい化け物でも見るかのような目で見つめていた。


「私……こんなに、間違えているんですね……」


「えっ? 違うわ、これはただの直すための記録で……」


「駄目なんです。私、文字を見るたびに、自分がどれだけ無能で、教えられたことを無駄にしているのかって、突きつけられているみたいで……! これ以上、自分が間違えていくのを見たくないっ……!」


 ノエミさんは両手で顔を覆い、ガタッと立ち上がった。椅子が後ろに倒れ、激しい音を立てる。


 彼女は過呼吸を起こす一歩手前のように肩を震わせていた。


「ストップ!」


 私は反射的に立ち上がり、ノートを伏せて彼女から遠ざけた。


 これ以上追い込んではいけない。ユリウス教官が私にしてくれたように、限界の兆候を見たら指導側が即座に中断しなければ。


「ノエミさん、息をして。授業はここまでよ。もうノートは見なくていい。何も言わなくていいから、ゆっくり息を吸って」


 私は彼女の背中をさすり、静かな声で落ち着かせようと努めた。


 数分後、ようやく呼吸が落ち着いたノエミさんは、私から逃げるように目を逸らし、「……ごめんなさい。やっぱり私、駄目なんです」と消え入りそうな声で残して、足早に教室を出ていってしまった。


 誰もいなくなった教室で、私は倒れた椅子を戻し、伏せられたノートを呆然と見つめていた。


 何がいけなかったのだろう。


 私は怒鳴っていない。無理な長時間を強いたわけでもない。ただ、失敗を直せる形に分けて、彼女ができるようになるまで付き添おうとしただけだ。


 それなのに、私の用意したこの『私を救ってくれた方法』が、彼女を怯えさせ、壊れる寸前まで追い詰めてしまった。


「逃げられたようだな」


 入り口の扉に寄りかかり、腕を組んだユリウス教導官が立っていた。彼がいつからそこにいたのかは分からない。


「ヴァイス教導官……」


 私は情けない声を出してしまった。


「私、何も無茶なことはしていません。彼女の失敗を記録して、直せるようにしただけなんです。私がやってきたのと同じように……。それなのに、彼女はそれを『失敗を突きつけられている』と受け取ってしまった。どうして……」


 私は教官に答えを求めた。「どうすればよかったのか」と。


 しかし、三十三歳になった鬼教官は、私が生徒だった頃と同じように、私に正解を教えようとはしなかった。


「彼女に過呼吸や怪我の兆候はあるか?」


「いえ……中断したので、落ち着いてから帰りました」


「そうか。安全管理と撤退の判断ができた点は評価する」


 教官はそれだけを事実として確認すると、私のノートを一瞥した。


「今日の君は、何を根拠にその方法を選んだ?」


「……自分に、効いたからです」


「答えは教えない。君が特任講師として、彼女を観察して見つけろ」


 教官は背を向け、去り際に一言だけ残した。


「彼女の反応の記録と、君自身の過去の記録を持ち帰り、一晩かけてよく読み比べてみることだ」


 その夜、王宮の近くにある自分の簡素な部屋で、私は机に二つの帳面を並べていた。


 一つは、私が学院生だった頃に真っ黒になるまで書き込んだ『失敗記録帳』。


 もう一つは、今日ノエミさんのために書き込み、彼女を逃げ出させてしまった『指導記録』。


 パラパラとページをめくる。


 私は、自分の失敗が曖昧な「何もできない」という絶望から、三十七個の「直せる具体的な項目」へ分解された時、安心した。直せばいいのだと、希望を持てた。


 でも、ノエミさんは違った。彼女は自分のミスが具体的に文字として残るたびに、安心するどころか、恐怖を増していった。


 同じ『失敗の記録』を見ているのに、なぜ彼女の心は私とは逆の方向へ動いたのだろう。


 私はペンを握り、自分の過去の感情を脇へ置いた。


『自分ならどう感じたか』という基準を、今は完全に捨てなければならない。


「ノエミさんは、何を怖がっていた……?」


 ランプの灯りの中、私はただ彼女の言葉と震え方だけを思い出し、白紙のページに仮説を書き出そうとしていた。


 先生の模倣ではなく、私自身の目で目の前の生徒を見るために。

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