第35話 先生としてではなく、特任講師として
王立アウレリア淑女学院の正門をくぐるのは、約四年ぶりのことだった。
春の柔らかな日差しの中、白亜の校舎は私が通っていた頃と何も変わらない威容でそびえ立っている。
四年前、婚約を破棄されたばかりの私は、怯えと絶望を抱えながらも、自分で選んでこの門をくぐった。自分が本当に無価値な人間なのではないかという恐怖を、必死にこらえていた。
今、私はもう泣いていない。
王宮の再就業・支援部門での三年間。私はそこで、華々しい政策を立ち上げるようなエリート官僚になったわけではない。職を失った人々の窓口で話を聞き、山積みにされたケース記録を整理し、一人ひとりに合う再訓練の手配を地道に調整する、下級から中堅に差し掛かる程度の平凡な実務官だ。
そんな私が今日、この学院に戻ってきたのは「先生」と呼ばれるような立派な常任教官としてではない。
王宮からの派遣という形で、任期一年の『実務応用および再教育担当特任講師』という、ひどく試験的な肩書を与えられてのことだった。成果が出なければ一年で打ち切られ、元の窓口業務へ戻るだけの立場である。
それでも、かつて私が失敗から立ち直る術を学んだこの場所に、今度は教える側として足を踏み入れることに、静かな感慨があった。
教員室へ赴くと、見覚えのある背中があった。
特別教導官、ユリウス・ヴァイス。三十三歳になった彼は、以前と変わらぬ隙のない姿勢で、新年度の書類に目を通していた。
「赴任の挨拶に参りました」
私が声をかけると、彼は振り返り、私の顔を見てから手元のペンを置いた。
「時間通りの到着だな。歓迎するぞ、ハルフォード特任講師」
「お久しぶりです、先生……いえ、ヴァイス教導官」
無意識に口をついて出そうになった「先生」という呼称を、私は慌てて飲み込んだ。
卒業の時、次に会うなら生徒としてではなく、自分の足で立った一人の人間として会いたいと願ったのだ。現場で三年間の実務を積んできた今、いつまでも守られる側の生徒気分でいるわけにはいかない。
「王宮の支援窓口では、随分と泥臭い案件を回し続けてきたそうだな。フェリシアやエルザからも、時折君の仕事ぶりは耳に入ってきていた」
「フェリシア様は政策部門で、エルザ様は外部監査役として、お二人とも立派に活躍されていますから。私なんて、書類の山と格闘してばかりでした」
「それが実務というものだ。……特任講師としての君の役割は、すでに聞いているな」
「はい。成績下位者や、実務でつまずいた生徒たちに対する、再教育課程の試験的運用ですね」
教官は短く頷いた。
教官は着任資料を私の前へ滑らせ、私は予定帳を開いた。再会の挨拶は、ほどなく実務の確認へ変わった。それでも、かつて手取り足取り導いてくれた彼と、こうして同僚として向かい合って言葉を交わしているという事実だけで、私の胸は微かな高揚で満たされていた。
挨拶と着任の手続きを終え、私は割り当てられた小さな準備室へ向かうため、人気のない東棟の廊下を歩いていた。
ふと、中庭に面したアルコーブの影から、ひっそりと鼻をすする声が聞こえた。
足を止め、そっと覗き込むと、学院の制服を着た見知らぬ令嬢が、膝に顔を埋めてしゃがみ込んでいた。床には、他国の外交儀礼について書かれた分厚い教本が放り出されている。
「どうしたの? 気分が悪いの?」
私が静かに声をかけると、彼女はビクッと肩を跳ねさせ、涙で濡れた顔を上げた。
栗色の髪をした、まだあどけなさの残る少女だった。
「……あなた、新しく来られた先生ですか」
「ええ。リディア・ハルフォードよ。今日から特任講師として着任したの。あなたは?」
「ノエミ……ノエミ・ベルクです」
ノエミさんは床に落ちた教本を拾い上げ、ぎゅっと胸に抱きしめた。
「私……もう、学院を辞めようと思って」
「辞める? まだ新学期が始まったばかりじゃない」
「駄目なんです。今日の語学の実習で、隣国の大使への挨拶を暗唱する課題があったんですけど……私、途中で一つの単語の発音を間違えてしまって。教官に指摘された途端、頭が真っ白になって、残りの文章が全部飛んでしまったんです」
彼女の言葉に、私は少しだけ驚いた。
その教本は、基礎課程の生徒が扱うにはかなり難易度の高いものだ。それを暗唱の課題に出されるということは、彼女の語学力や記憶力自体は決して低くないはずだ。
「間違えたのは一か所だけだったのね。そこから先はどうなったの?」
「もう、何も言えなくて……周りの子たちにも笑われた気がして。せっかく全部覚えてきたのに、たった一つのミスで、私の価値は全部なくなってしまったんです。こんな無能な私、これ以上ここにいても迷惑になるだけだから……」
ノエミさんはボロボロと涙をこぼし、逃げるように立ち上がろうとした。
一つの失敗で、自分のすべてを否定されたように感じてしまう恐怖。
私は、かつての自分が婚約破棄の夜に感じた絶望と、この学院の最初の実習で転んだ時のパニックを思い出していた。
ただ、私は「昔の私と同じね」と安易に彼女を括ることはしなかった。彼女は私とは違う。あんな分厚い外交教本を丸暗記できるだけの高い記憶力を持っているのだから、能力の質はむしろ優秀な部類に入る。
問題は能力が低いことではない。失敗した後に、そこから戻る術を知らず、逃げることでしか自分を守れないことなのだ。
「ノエミさん。もし、本当に辞めてしまうつもりなら」
私は彼女の細い肩にそっと手を置き、真っ直ぐに彼女の目を見て言った。
「明日から始まる、私の『特別実務クラス』に出てみない? どうせ辞めるのなら、最後に一つだけ、別のやり方を試してからでも遅くはないと思うの」
その日の夕方。
私は自分の準備室の机で、明日から始まる特別クラスの履修者名簿に「ノエミ・ベルク」の名前を書き加えていた。
机の引き出しから、私がずっと使い込んできた『失敗記録帳』を取り出す。
「私は何もできない」と泣いていた私を、直せる個別課題へと分解し、立ち上がる力をくれた魔法の帳面。
ユリウス教官が私に与えてくれたこの『失敗を直視し、反復によって修正する』という方法は、私の人生を根本から救い上げてくれた絶対の成功法則だ。
「ノエミさんも、たった一つの失敗で自分を全否定してしまっているだけだわ」
私は白紙の新しいノートをめくり、明日のノエミさんのための訓練計画を練り始めた。
まずは彼女が今日逃げ出した「語学の発音ミス」という現実から逃げずに、どこをどう間違えたのか、失敗をノートに書き出させて直視させる。そして、間違えた発音を何度も何度も反復練習させ、正解できるまで繰り返す。私がやってきたのと同じように。
「私に効いたこの方法なら、きっと彼女のことも救えるはず」
私は、自分が立派な「教える側」になれたような手応えに胸を弾ませながら、ペンを走らせた。
ふと、ノートを受け取った時のノエミさんの強張った指先が脳裏をよぎった。けれど私は、それを初日の緊張だと片づけ、反復回数の計算を続けた。




