第4話 三十七個の失敗
放課後の静かな個別訓練室。窓から差し込む夕日が、長机の上に置かれた真新しい帳面をオレンジ色に染めていた。
私の目の前には、腕組みをして静かに待つユリウス教官が座っている。
「書け」
教官の指示は、ただその一言だけだった。
昨日の入学診断試験で、私がどれほど悲惨な成績を残したか。そしてその結果として、ユリウス教官の推薦枠という周囲の期待を完全に裏切り、総合百二十七位という事実上の最下位に沈んだか。
振り返るべきことは山ほどあるはずなのに、いざペンを握ると、何から書き始めればいいのか全く分からなかった。
頭の中に渦巻いているのは、嘲笑を浴びた時の羞恥心と、また何もできなかったという強烈な絶望感だけだ。
私は震える手でペンを動かし、真っ白なページの中央に一行だけ書き込んだ。
『私は、実務に向いていない。何もできない』
それが、私の絞り出した精一杯の現状認識だった。
しかし、帳面を覗き込んだユリウス教官は、微かに眉根を寄せただけで、冷たく言い放った。
「却下だ。線を引いて消せ」
「……え?」
「『何もできない』というのは君の感情であって、事実ではない。そんな曖昧な記述では、何が原因で、どう修正すればいいのかが全く分からない。これでは訓練にならない」
教官の言葉には、私を貶めようとする悪意はなかった。ただ、提出された書類の不備を指摘するような、事務的な響きしかなかった。
「感情を記録するなとは言わない。だが、今必要なのは起きた事実だ。昨日の診断試験で、君は具体的に何をどう失敗したのか。一つずつ書き出せ」
「具体的に、ですか……」
「そうだ。最初の模擬受付の場面。来賓から予定外の要望を告げられた時、君は何をした?」
私は昨日の光景を思い出した。教員から厳しい言葉を投げられ、頭が真っ白になったあの瞬間。
「……頭が、真っ白になって……パニックに、なりました」
「それは君の内心だ。外から見て分かる行動を言え」
教官の容赦ない問いに、私は言葉を詰まらせた。外から見て分かる行動。
「……視線を、手元の書類に落としました」
「そうだ。それが一つ目の失敗だ。『予期せぬ事態で、相手の顔を見る前に視線を落とした』。それを一番に書け」
教官の指示に従い、私は一行目にその具体的な行動を書き込んだ。
「次はどうした?」
「ええと……相手の要望を最後まで聞かずに、適当な案内をしようとしました」
「それが二つ目だ」
そこから、果てしない分解作業が始まった。
教官は私の曖昧な記憶を、一つ一つ冷徹に解きほぐしていく。「急病人の症状を聞いた後、どう動いたか」「返答までに何秒かかったか」「その時の声の大きさはどうだったか」。
振り返れば振り返るほど、自分の至らなさが浮き彫りになっていく。
「急病人の対応で、医務室への連絡より先に座席表を確認しました」
「質問の意図を取り違えて、見当違いの返答をしました」
「言葉に詰まって、三秒以上沈黙しました」
「焦って、声が震えました」
姿勢の崩れ、視線の泳ぎ、確認事項の漏れ、優先順位の誤り。
私が「パニックになった」という一言で片付けようとしていた曖昧な失敗は、教官の問いかけによって、何十もの具体的なミスの集合体として暴かれていった。
書き連ねた項目の横に番号を振っていく。
十、二十、三十……。
帳面のページをめくり、ついに最後の失敗を書き終えた時、ペン先が止まった数字は『三十七』だった。
たった一日の、それもごく短い診断試験の中だけで、私は三十七個もの明確な失敗を犯していたのだ。
並んだ数字を見て、私は血の気が引くのを感じた。自分の無能さが、これ以上ないほど残酷な形で可視化されている。
「――三十七個?」
不意に、開け放たれた訓練室の入り口から、呆れたような声が響いた。
ビクッと肩を揺らして振り返ると、そこには美しい金髪を揺らしたエルザ様が立っていた。忘れ物でも取りに来たのか、手には数冊の教本が抱えられている。
彼女は私の手元の帳面を遠目に見下ろし、ふっと冷笑を漏らした。
「たった数回の実技で三十七個も失敗するなんて、ある意味で才能ですわね。私なら恥ずかしくて、とてもそんな記録をつけようとは思えませんけれど」
嘲笑が胸に突き刺さる。エルザ様の言葉は事実だった。総合上位の彼女からすれば、私の失敗の数は信じられないほど滑稽に見えるだろう。
言い返す言葉など、あるはずもなかった。私は俯き、帳面の上に置いた手をきつく握りしめた。
しかし、ユリウス教官はエルザ様の嘲笑を完全に無視した。
彼は私の帳面を覗き込み、並んだ三十七の項目を端から端まで目で追うと、ただ静かに一度だけ頷いた。
「ようやく、訓練できる形になったな」
その平坦な声に、私は弾かれたように顔を上げた。
教官は、私の失敗の多さを呆れることも、逆に「よく書き出した」と努力を褒め称えることもしなかった。ただ、目の前にあるリストが『訓練の材料として使える状態になった』という事実だけを評価したのだ。
入り口に立っていたエルザ様は、教官が自分を一瞥だにしなかったことに少しだけ顔をしかめると、「失礼いたしました」と冷たく言い残して廊下へ去っていった。
静けさの戻った訓練室で、私は再び自分の帳面に視線を落とした。
三十七個の失敗。
確かに、絶望的な数だ。見ているだけで胃が痛くなる。
けれど、昨日までの私を支配していた感覚とは、何かが決定的に違っていた。
昨日までの私は、「私という人間全体が駄目なのだ」と思っていた。能力がなく、実務に向いておらず、だから婚約者にも切り捨てられたのだと。その漠然とした自己否定は、巨大な黒い雲のように私を覆い尽くし、手も足も出せない状態にさせていた。
だが、今目の前にあるのは違う。
『1.予期せぬ事態で、相手の顔を見る前に視線を落とした』。
『14.返答までに三秒以上沈黙した』。
これらは私の人格や才能の否定ではない。ただの「直すべき項目」だ。「私全体」を直すことはできなくても、「視線を落とさないこと」や「三秒以内に相槌を打つこと」なら、練習すればどうにかなるかもしれない。
巨大な自己否定が、一つずつ処理できる作業のリストに変わったのだ。
「さて、ハルフォード嬢」
教官が、机を軽く指先で叩いた。
「三十七個の失敗が明らかになった。次はこの課題を潰していくわけだが、君はどうする? 明日、この三十七個をすべて直せると思うか?」
「……いいえ。絶対に無理です」
私は迷わずに首を振った。今の私に、そんな器用な真似ができるはずがない。全部を意識しようとすれば、必ずまたパニックを起こして連鎖的に崩れる。
「妥当な判断だ。では、どうする」
教官の問いかけに、私は帳面の項目を上から下までなぞった。
そして、一番最初にある『1』の項目をペンでぐるりと丸く囲んだ。
「明日は……これだけを減らします」
相手の顔を見る前に視線を落とす。パニックの引き金になる、一番最初の逃避行動。
百二十七位の私にできるのは、ただその一つに絞って向き合うことだけだった。




