第5話 前回の自分に勝つ
学院のカリキュラムは容赦がなく、入学診断試験からわずか数週間後には、最初の短期再試験が行われた。
会場となる大広間には、診断試験と同じように複数の模擬実務ブースが並んでいる。私の胸の奥では、緊張が冷たい塊になって居座っていた。
今回の課題は『領主の代理として、陳情に訪れた複数の領民から要求を聞き取る』というものだ。
「ハルフォード嬢。次の陳情者です」
教員の合図とともに、恰幅の良い商人役の男性がブースへ入ってきた。
「領主代行様。今年の税の取り立てについてですが、隣の領地ではすでに軽減措置が……」
矢継ぎ早に投げかけられる不満と要求。相手はわざと語気を強め、こちらの冷静さを奪おうとしてくる。
胃が縮み上がるような感覚。焦りが足元から這い上がってくる。
私は反射的に、手元の資料へ逃げ込もうとした。視線を落とし、相手の怒気から身を隠したくなる。
――だが、その瞬間、私の頭の中に失敗記録帳の第一項目がよぎった。
『1.予期せぬ事態で、相手の顔を見る前に視線を落とした』
首の後ろに力を込め、私は下を向きかけた顔を無理やり引き上げた。
手元の資料を見たい衝動を堪え、目の前の商人役の顔を真っ直ぐに見つめ返す。怖い。でも、視線だけは絶対に外さない。
「……恐れ入りますが、まずは具体的な数字を教えていただけますか。隣の領地との差額は、どの程度だと認識されていますか」
声は少し震えていたかもしれない。言葉を選ぶのにも、以前と同じように時間がかかった。
それでも、私は『相手の顔を見て状況を確定させる』という最初のステップだけは、なんとか崩さずに踏みとどまった。
その後も、陳情者の言葉に詰まる場面は何度かあった。すべての要求に対して完璧な代案を出せたわけでもない。他の評価項目である『法的根拠の提示』や『交渉の主導権』については、自分でも分かるほどボロボロだった。
ただ、パニックになって視線を落とすことだけは、最後まで一度もなかった。
全生徒の試験が終わり、広間の掲示板に順位が張り出された。
私は祈るような気持ちで、一番下から自分の名前を探した。
百二十八位、百二十七位、百二十六位……ない。
少しずつ視線を上げていく。
『百十九位 リディア・ハルフォード』
その数字を見つけた瞬間、私は小さく息を吐き出した。
八つ上がった。百十九位。依然として下位の層であることに変わりはない。上位のエルザ様や他の令嬢たちから見れば、誤差のようなものだろう。
けれど、私にとっては違った。百二十七位だった前回の私に、私は確かに勝ったのだ。
「……ちょっと、おかしくありませんこと?」
不意に、掲示板の前に集まっていた生徒たちの間から、鋭い声が響いた。
声の主はエルザ様だった。彼女は私の名前が書かれた百十九位の欄と、私を交互に睨みつけていた。
「たった数週間で、実務の成績が急に上がるなんて。しかも、あのヴァイス教官の推薦生というだけで、採点基準が甘くなっているのではないかしら」
周囲の令嬢たちがざわめき始める。
あんなに惨憺たる成績だった私が順位を上げたのだから、異例の推薦という背景を疑われても、私はすぐに言い返せなかった。
私は反論できず、唇を噛み締めた。せっかくの百十九位が、汚い不正の産物として扱われようとしている。
「ローゼンベルク嬢、その発言は聞き捨てなりませんね」
静かだが威圧感のある声が、ざわめきを切り裂いた。
振り返ると、採点を担当した年配の女性教員が、分厚い記録簿を抱えて立っていた。
「当学院には、厳格な利益相反規則が存在します。推薦者は、当該生徒の採点、順位決定、昇級判定には一切関与できません。ヴァイス特別教導官は、ハルフォード嬢の試験会場には立ち入っておらず、採点記録の閲覧すら事後に行っています。私の採点に不正があると主張するなら、それなりの根拠を提示しなさい」
教員の毅然とした態度に、エルザ様は一瞬言葉を詰まらせた。
「……ですが、現に彼女の順位は不自然に上がっていますわ」
「不自然ではありません」
教員は手元の記録簿を開き、私の評価欄を読み上げた。
「ハルフォード嬢は、法的知識や交渉術の項目では依然として最低ランクです。しかし、『対人危機時の視線の維持』という一項目においてのみ、前回の最低点から平均点まで改善が見られました。その一点の改善が、総合点に反映された結果です。それ以上でも以下でもありません」
明確な根拠と数字を提示され、不正の疑いはその場で完全に潰れた。
エルザ様は悔しげに顔を歪め、それでも学院の規則には逆らえず、小さく頭を下げた。
「……申し訳ありません。私の早計でしたわ」
彼女は私の方を一度だけ鋭く睨みつけると、取り巻きを連れてその場を去っていった。彼女の順位は依然として上位のままだ。完全な敗北を認めたわけではない、その背中がそう語っていた。
放課後の個別訓練室。
私は、返却された試験記録と自分の失敗記録帳を机に並べ、目の前に座るユリウス教官を待っていた。
百十九位。不正疑惑も晴れた。少しだけ、褒めてもらえるのではないか。そんな淡い期待が、胸の奥にないわけではなかった。
教官は部屋に入ってくるなり、記録用紙を一瞥した。
「順位が上がったな」
ただそれだけだった。声のトーンはいつもと変わらず、大げさな称賛も、特別な喜びの色もない。
「はい」
「では、説明しろ」
「えっ?」
「何を変えたから、順位が上がったのか。君自身の言葉で説明しろ」
教官は私の手柄を自分の指導のおかげだとは言わなかった。同時に、私が何となく運で点数を取ったのだとも決めつけなかった。
私は手元の帳面に視線を落とし、あの試験の瞬間を思い返した。
「……前回の診断試験では、パニックになって相手の顔を見る前に視線を落としていました。それが私の、一つ目の失敗でした」
「ああ」
「今回の試験では、他のことはできませんでしたが……とにかく、相手から目を逸らさないことだけを意識しました。怖くても、手元の資料に逃げませんでした」
「結果はどうだった」
「その項目だけは、平均点をもらえました。だから……百十九位になれました」
自分の口で言葉にして、初めて実感が湧いた。
私が百十九位になれたのは、奇跡でも不正でもない。私が自分で選び、自分で直した三十七分の一の結果なのだと。
「そうだ」
教官は小さく頷いた。
「君は他人に勝ったわけではない。だが、前回の自分には勝った。それが『直す』ということだ」
その言葉は、どんな美辞麗句よりも深く、私の胸の奥に染み込んでいった。
「ただし、喜ぶのはここまでだ」
教官は容赦なく次の話題へ移った。
「次の実習は、来週の公開晩餐実習だ。他の生徒と相席で、実際の社交を模した会話が行われる」
「社交、ですか……」
「そうだ。そして、君にはすでに最悪の噂がついている。他の生徒たち……特に君に敵意を持つ者は、君の最も触れられたくない話題を、会話の材料として提供してくる可能性が高い」
最も触れられたくない話題。
それは間違いなく、公衆の面前で突きつけられた、あの婚約破棄のことだ。
血の気が引くのを感じながら、私は震える手で、失敗記録帳の新しいページにペンを走らせた。




