第33話 公に直すべきこと
救恤局での激動の最終実習から数日後。
王宮の一角にある行政管理部の厳粛な会議室に、今回の実習と制度改定の決着をつけるための場が設けられていた。
長円形の卓には、上級官僚や救恤局長、そして私たちの実習を見届けたユリウス教官が座っている。私は実習生を代表する参考人として、末席に静かに腰を下ろしていた。
静寂の中、記録官が淡々と今回の事態に関する正式な報告書を読み上げる。
「――以上の経緯により、救恤局広場での混乱を流血なしに収束させたのは、アウレリア学院生による現場の分類案および、限定的な再審査窓口の設置提案であったと認定する。また、暴動の引き金となった財政院の支援停止措置については、事前の成果予測資料において『初期配置のミスマッチ』および『別勘定への波及費用』が算出範囲から漏れており、実態に即した評価基準を満たしていなかったと結論づける」
それは、ただの口約束や一時的な賞賛ではない。王国の歴史に残る公的な議事録として、私たちが提示した事実が刻まれた瞬間だった。
「アルベルト・グレイヴ殿」
上座の官僚が、卓の向かいに立つアルベルトに冷徹な視線を向けた。
「君の提出した数字そのものに不正はなかった。しかし、現実の人間の動きを測る範囲があまりに狭すぎた。この事実誤認と、それに伴う政策の混乱を重く見、君を本プロジェクトの改革チームから外し、明日付で下級実務部門への異動を命じる」
将来を嘱望された若きエリート分析官の、明確な出世コースからの脱落。
アルベルトは一瞬だけ目を伏せたが、取り乱すことも、誰かに責任を転嫁することもなかった。
「……処分を受け入れます。私の計算モデルに、現場の変数を拾い上げるだけの視野が欠けていたことは、紛れもない事実です」
彼は静かに一礼し、自らの誤りを公的に認める調書へ、迷いなく署名した。
私はその横顔を見つめながら、膝の上でそっと両手を組んだ。
あの夜会で、大勢の貴族たちの前で一方的に婚約を解消され、傷つけられた私の尊厳。
感情で喚き散らすのではなく、泥水の中で拾い集めた事実と記録によって、あの日の彼の評価が間違っていたことを、私はこの公の場で、公の記録として完全に訂正させたのだ。
「アルベルト様。少しよろしいでしょうか」
会議の終了が宣言され、同席していた関係者たちが席を立つ中、傍聴席にいたクラリッサ・レーヴェン様が静かに進み出た。
彼女はアルベルトの前に立つと、凛とした姿勢のまま、はっきりと告げた。
「私は本日をもって、あなたとの新たな婚約に向けた協議を、正式に白紙に戻させていただきます。所定の手続きは、すでに当家から手配いたしました」
アルベルトは驚いたように彼女を見た。
「私が改革チームを外されたからか?」
「いいえ。能力や肩書の問題ではありませんわ」
クラリッサ様は首を横に振った。その瞳には、打算ではなく、彼女自身の強固な価値観が宿っていた。
「あなたが有能であることは事実でしょう。ですが、どれほど能力が高くとも、人に対する礼を尽くすこととそれは別です。……あなたはかつて、ご自身の婚約を解消する際、相手への事前の説明という手間を省き、王宮の夜会という公衆の面前で一方的にそれを処理しました」
彼女の言葉は、私の胸の奥に刺さっていた棘の形を正確に言い表していた。
「相手の尊厳よりも、ご自身の手続きの効率と噂の処理を優先した。私はこの数日、あなたのその価値観が変わっていないことを、現場での振る舞いから見極めておりました。……私は、人の心を測れないあなたの合理性に、自分の人生を預けることはできません」
クラリッサ様は毅然とそう言い放ち、最後に私の方を向いて、微かに、けれど確かな敬意を込めて一礼した。
彼女は私から何かを奪った恋敵などではなかった。自分の価値観で自分の人生を選び取る、自立した一人の女性だったのだ。
クラリッサ様が会議室を去り、残されたのは私とアルベルト、そして少し離れた扉の前に立つユリウス教官だけになった。
アルベルトはゆっくりと私に向き直り、数歩だけ歩み寄ってきた。
「ハルフォード嬢。……いや、リディア」
彼は静かに、そして深く頭を下げた。
「すまなかった」
その謝罪の声は、かつての氷のような冷たさを失い、ひどく人間らしい響きを帯びていた。
「私は、君の能力と伸びしろを完全に見誤っていた。だが、それ以上に……私が謝罪すべきは、あの夜会のことだ」
アルベルトは頭を上げた。言い訳を探すような濁りはない。
「私は、君との婚約解消を私的な話し合いで済ませる労力を惜しんだ。自家への影響を最小限に抑え、一度で周知を終わらせるために、最も効率の良い公の場を利用した。君が公衆の面前でどれほどの屈辱を味わうかという、人としての尊厳を完全に無視して」
それは、婚約を解消されたあの夜から、ずっと聞きたかった言葉だった。
私が欲しかったのは、「私には才能がある」という嘘の慰めではない。「私の心を傷つけた」という事実を、彼自身に認めてほしかったのだ。
「……謝罪は、受け取ります」
私は静かに答えた。
「でも、私があなたを許して、あの夜の傷がすべて消え去るわけではありません。私たちが元に戻ることも、二度とありません」
「分かっている。これは、私自身の身勝手な精算に過ぎない」
アルベルトは小さく自嘲するように口元を歪めた。
「私は明日から、下級実務の部署へ移る。書類の整理からやり直しだ。君の時間を無駄だと切り捨てた私が、一番時間のかかる底辺から再出発することになるとはな」
自らの完璧な計画から転落し、すべてを失ったかつての婚約者。
ざまあみろ、と笑ってやることもできた。もう二度と私の前に現れるなと、冷たく突き放す権利も私にはあった。
だが、私は彼から背を向ける代わりに、真っ直ぐにその目を見つめ返した。
「アルベルト様。私たちがこれから救恤局や学院に提案しようとしている、新しい再挑戦のための教育制度についてですが」
「……?」
「その申請資格から、あなたを排除することはありません」
アルベルトは目を見開いた。
「どういう意味だ。君は、私に特別に情けをかけると言うのか?」
「勘違いしないでください。特別扱いも、救済もしません。ただ、他の職を失った人たちと全く同じように扱うだけです」
私は言葉に力を込めた。
「あなたは失敗し、コースから外れました。だから、他の人と同じように、下からもう一度やり直す権利があります。もし私が、過去の個人的な恨みであなただけを制度から弾き出せば……私は、自分の勝手な基準で人の未来を切り捨てた、かつてのあなたと同じ人間になってしまいますから」
私が泥水の中で見つけ出し、これから守っていこうとする『失敗しても、次を選べる』という原則。それを、自分自身の私情で曲げないための、私なりの実務家としての矜持だった。
アルベルトはしばらく声を出せずにいたが、やがて何かを噛み締めるように目を閉じ、もう一度だけ深く頭を下げた。
「……負けたよ。君は本当に、強くなった」
彼は踵を返し、今度こそ静かに会議室を出ていった。
「いい顔になったな」
壁際に立っていたユリウス教官が、歩み寄ってきて短く言った。
「これで、過去の清算は本当に終わりだ。誰の評価も、君の人生の結論にはならない」
「はい」
私は大きく息を吐き出した。肩に乗っていた重く冷たい石が、ようやく音を立てて崩れ去ったような気がした。もう、元婚約者の評価に怯える必要はない。
「明日は、いよいよ卒業順位の発表と最終講評だ」
教官の言葉に、私は顔を上げた。
復讐は終わった。誰かに勝つための戦いも終わった。
残るはただ一つ。百二十七位から始まり、三十七個の失敗と向き合い続けてきた私が、この学院で最終的に何者になれたのか。
私は自分の足で歩き出す明日の朝を、静かな期待とともに見つめていた。




