第32話 流血させない
救恤局の事務棟二階から響いたガラスの割れる音は、私たちの実習が本当の危機へと突入した合図だった。
南棟のホールに避難していた私たちは、窓越しに事務棟の入り口付近の惨状を目の当たりにしていた。
「おい、この扉を開けろ! 中に入れて話をさせろ!」
対話窓口での穏便な解決を拒否した強硬派の一団が、事務棟の入り口を塞ぐバリケードを力任せに揺さぶっていた。興奮状態にある彼らは、手近にあった木箱を叩き壊し、その破片を振り回して威嚇している。
「……駄目ですわ。あれはもう、ただの抗議ではありません」
エルザ様が青ざめた顔で呟いた。
「広場で分けた『暴力目的の者』とは違います。彼らは支援を打ち切られた当事者でありながら、絶望のあまり、暴力を手段として選んでしまったのですわ」
私は、広場での分類を頭の中で更新した。
彼らはただの暴徒ではない。財政院が採用した制度からこぼれた人たちだ。だからといって、彼らが物を壊し、力で扉を開けようとしている行為を肯定することは絶対にできない。「見捨てられたから壊してもいい」なんて理屈が通れば、支援を待つ他の通常利用者たちの安全が完全に崩壊してしまう。
「隊長! 突入の許可を!」
事務棟の前に展開した警備隊の隊員たちが、盾を構えながら叫んでいる。
もしこのまま警備隊が武力制圧に踏み切れば、確実に血が流れる。暴徒と化した当事者たちは傷つき、あるいは逮捕され、彼らの『もう一度やり直す機会』は永遠に失われてしまう。
「ハルフォードさん、どうするの。このままでは……」
フェリシア様が私を見た。
私は大きく息を吸い込み、ユリウス教官を振り返った。
教官は私の視線を受け止めると、短く頷いた。
「危険判断は私が行う。君たちは後方支援の範囲内で、やれることをやれ」
先生からの許可。私はエルザ様とフェリシア様に向き直った。
「フェリシア様。あの強硬派の人たちが『何を要求しているか』、先ほどの対話窓口の記録から拾い出せますか?」
「ええ、待って」
フェリシア様は手元の書類の束を高速でめくり始めた。
「……彼らの主張は共通しているわ。『再訓練の期間が短すぎる』『適性のない仕事を押し付けられた』。つまり、自分たちの事情を汲まずに一律で切られたことへの怒りよ」
「エルザ様。広場にいる通常利用者たちを、完全に別の導線へ隔離できますか? 警備隊が動く前に、一般の方々を巻き込まない形を作りたいんです」
「任せてちょうだい。南棟の裏口を解放して、私が責任を持って全員を誘導しますわ」
エルザ様は迷いなく扇を開き、凛とした声でホールの職員たちへ指示を出し始めた。
三人の役割は決まった。
私はフェリシア様が集めた彼らの『要求』のリストを手に取り、失敗記録帳で身につけた方法でそれを分解していった。
彼らは『制度の全面撤回』を叫んでいるが、それは行政側が絶対に呑めない条件だ。だから、そのままの形でぶつけても交渉は決裂する。
行政が即座に実行可能で、かつ彼らが矛を収めるだけの『最低限の条件』。
私は紙に数行の文字を書き殴り、それを手に救恤局長の元へ走った。
「局長! 警備隊の突入を待ってください!」
私は局長と警備隊長の間に入り込み、手元の紙を突きつけた。
「彼らの要求をそのまま呑む必要はありません。ですが、暴力を振るう理由を根元から奪うことはできます」
「学生が口出しすることではない!」局長が声を荒らげた。「彼らはすでに器物破損に及んでいるんだぞ!」
「はい。ですから、暴力行為は警備隊が厳正に対処してください。ですが、彼らが立て籠もる理由である『支援停止の恐怖』だけを取り除くんです」
私は先ほどの会議室で決まったばかりの、王妃殿下の言葉を思い出しながら言った。
「先ほどの会議で『支援停止の暫定凍結』と『限定的な再審査窓口の設置』が許可されました。その決定を、今すぐ彼らに伝えるんです。……『暴れなくても、話を聞く場所は用意された』と」
局長は一瞬言葉に詰まり、隣に立つユリウス教官を見た。
教官は静かに頷いた。
「彼女の言う通りです、局長。決定事項を伝達し、彼らに武器を捨てる大義名分を与える。それでも刃向かう者だけを、警備隊が制圧すればいい。それが最も流血を減らす現実的な手です」
教官の大人としての後押しを受け、局長はついに決断を下した。
「……隊長! 突入は待て。拡声器を貸せ!」
局長は拡声器を手にし、事務棟で暴れる強硬派たちへ向かって、先ほどの会議で決まった『限定的な再審査の確約』を大音声で伝達した。
その言葉が広場に響き渡った瞬間。
振り上げられていた木箱の破片が、一つ、また一つと地面に落ちる音が聞こえた。
「……本当かよ。もう一度、審査してくれるのか……?」
「暴れる必要は、ないのか……?」
戦う理由を失った彼らは、次々とその場にへたり込み、あるいは自ら警備隊の前に両手を差し出した。
最後まで反発し、暴力を振るい続けようとした数名の便乗者たちだけが、警備隊によって速やかに、そして誰一人死傷者を出すことなく取り押さえられた。
流血の惨事は、防がれたのだ。
「ハルフォードさん」
フェリシア様とエルザ様が、私の両隣に並び立った。
私たちは無言のまま、制圧されていく広場の光景を見つめていた。
私は一人で群衆を静めた英雄ではない。エルザ様が安全な導線を確保し、フェリシア様が情報を集約し、教官と局長が責任を持って決断を下し、警備隊が実力で場を収めた。私はただ、その間で「どうすれば次に進めるか」という条件を整理して繋いだだけだ。
それでも、私たちが学んできた技能のすべてが、確かにここで一つの形になり、最悪の事態を食い止めたのだ。
「……本日の卒業最終実習は、これにて終了とする」
ユリウス教官の静かな声が、長く続いた一日の終わりを告げた。
私は全身の力が抜け、その場にへたり込みそうになるのを、両隣の二人に支えられてどうにか堪えた。
だが、これで本当にすべてが終わったわけではない。
教官は私の前に立ち、平坦な声で付け加えた。
「明日は学院で、今回の実習の最終講評が行われる。そして……」
教官の目が、少しだけ細められた。
「今日の会議結果を受け、財政院のアルベルト・グレイヴ殿の処分と、制度案の正式な修正が下される。……最後まで、見届ける義務があるぞ」
私は息を飲み、深く頷いた。
勝って終わりではない。この後、アルベルトがどうなるのか。そして、私たちがこじ開けた小さな再審査の窓口が、これからどんな公の形として残っていくのか。
この最終実習の本当の結末が、明日の講評の場に待っていた。




