第31話 表にない人たち
王都救恤局の最上階にある大会議室は、重苦しい沈黙に包まれていた。
長円形の卓を囲むのは、救恤局長、上級官僚たち、我がアウレリア淑女学院の学院長、そして名誉総裁として視察に訪れているアデライド王妃殿下。
そして卓の片側には、財政院の若手分析官であるアルベルト・グレイヴが立っていた。対面の端の席には、実習生ながら対応案の提出者として同席を許された私と、フェリシア様、エルザ様が座っている。
「――以上の数字が示す通りです」
アルベルトは手元の資料を淀みなく読み上げ、上座の官僚たちへ視線を向けた。
「制度改定後、再就業支援部門の単年度支出は二割削減され、対象者の平均再就職日数も大幅に改善しています。下階に複数の立場の者が混在していることは承知しています。平和的な抗議者には別の対話窓口を設けてもよい。ですが、器物を損壊し、庁舎への侵入を図る者は、通常利用者の安全のために排除が必要です」
アルベルトは資料を一枚めくった。
「また、窓口での誤分類や別勘定の費用が一部に存在したとしても、それだけで制度全体の失敗は証明できません。一件の再審査成功を全対象へ一般化するのも危険です。現時点では、抗議者を行動別に分けたうえで、制度の運用は維持する。それが最も損失の少ない判断です」
彼の提示した数字に、嘘や捏造は一切ない。官僚たちの何人かが頷いた。暴力行為者と対話可能な者を分ける点でも、私たちの現場判断と矛盾していなかった。
かつての私なら、あの整然とした数字の暴力の前に頭が真っ白になり、一言も反論できずに俯くことしかできなかっただろう。「時間をかける価値がない」と切り捨てられた夜会の日と同じように。
だが、今の私は逃げない。
「アルベルト様。提出された成果表の数字が、救恤局の単年度予算において正確であることは私たちも確認いたしました」
私はゆっくりと立ち上がり、彼を真っ直ぐに見据えた。
「ですが、その資料は『測っている範囲』が狭すぎます。判断材料として不十分です」
アルベルトの眉が微かに動いた。
「範囲が狭いとは、どういう意味かな。ハルフォード嬢」
「エルザ様、フェリシア様」
私の合図で、隣に座る二人が立ち上がり、用意していた追加資料を卓上へ配った。
「窓口の処理記録の照合結果ですわ」
エルザ様が、透明でよく通る声で説明を始める。
「現在、短期で支援を打ち切られた対象者の初期面談記録を調べたところ、身体条件とのミスマッチが『能力不足』として一律に誤分類されているケースが多数存在することが確認されました。彼らは見込みがないのではなく、最初の適性配置が間違っていただけです」
「さらに、会計記録の追跡結果です」
フェリシア様が、自身の計算した検算表をアルベルトの前に滑らせた。
「救恤局での支援を打ち切られた後、二週間以内に別の居住区で『家族扶助』を申請した者、あるいは路上でのトラブルから『治安維持局』の対応費用を発生させた者の追跡データを合算しました。結果として、救恤局の単体予算は二割減りましたが、別勘定へ移った波及費用を含めれば、王国全体の支出はむしろ改定前より微増しています」
アルベルトは検算表を受け取り、登録番号と日付を順に追った。
「同一人物の追跡であることは確認できる。だが、家族扶助や治安対応の費用が、支援停止だけを原因として発生したとは限らない。制度を継続していても生じた可能性は残る」
「はい。ですから、私たちは費用だけでなく、初回面談の記録も照合しました」
私は、エルザ様が整理した分類表を開いた。
「身体条件と配置先の不一致が記録されているのに、能力不足として停止された例が繰り返しあります。停止後の別窓口利用まで同じ登録番号で追えたものだけを集計し、因果を断定できない例は除外しました。それでも、現行の成果表だけでは王国全体の費用を判断できません」
私は続けて、広場での対応記録を示した。
「アルベルト様の表から消えた人たちは、決して透明になって消滅したわけではありません。別の場所で、別の費用となって現実を生き続けています。そして、今この建物の下にいる群衆も同じです」
「下階にいるのは、暴徒という一つの塊ではありません。対話窓口へ案内したことで、大部分の人は暴力を手放し、再審査を待つ列へ並び直しました。今ここで彼らの要求を無視して強制排除を行えば、せっかく分けた対話可能な当事者たちまで再び暴徒化させ、通常利用者へも深刻な被害を及ぼします」
地下の資料室で埃まみれになって探した会計記録。面談ブースで一人の青年の失敗を分解した聞き取り。広場での群衆の分類。
それらの記録が、アルベルトの成果表の横に『もう一つの事実』として並んだ。
「……関係機関の記録が連携されるまでの時間差を突いた、見事な追跡調査だ」
十数秒の重い沈黙の後、アルベルトは手元の資料を卓に置き、ゆっくりと顔を上げた。
「すべての波及費用が制度改定によるものだとは、まだ断定できない。だが、外部費用と初期配置の誤りを除いたまま、現行制度の成功を断定することもできない。……即時排除と一律の運用継続という先ほどの結論は取り下げる。対象を限定した再審査を行い、その結果まで含めて再計算すべきだ」
反論を重ねた末に、アルベルトは自分の結論を修正した。私たちの記録は、彼の計算を否定するのではなく、測る範囲を広げたのだ。
「見事な情報整理と会計調査、そして何より、各人の強みを活かした素晴らしい連携です」
学院長が、満足げな笑みを浮かべて私たち三人を見た。
「学院が求める実務応用と危機対応の能力を、これ以上ない形で証明してくれましたね」
実習生としての最高の評価。フェリシア様とエルザ様が、互いに顔を見合わせて小さく息を吐き出しているのが分かった。
「――ならば、方針は決まりです」
それまで静観していたアデライド王妃殿下が、凛とした声で場をまとめた。
「救恤局長。学生たちの案に基づき、対話窓口へ並んだ者を対象とする『限定的な再審査』と、その対象者に限った『支援停止の暫定凍結』を、局長権限で試行できますね」
局長は手元の規定を確認し、深く頷いた。
「可能です。期間と人数を区切り、結果を財政院へ再提出することを条件に認可します」
「では、試行中に必要となる追加費用は王家救恤基金から拠出しましょう。直ちに警備隊へ方針変更と対話継続を伝えなさい」
「はっ!」
局長が立ち上がり、伝令を走らせようと会議室の扉へ手をかけた。
その時だった。
扉が外から激しく叩かれ、血相を変えた警備隊の隊員が転がり込んできた。
「局長!! ご報告します!」
隊員の顔には、煤と擦り傷がついていた。
「南側の資材搬入口付近で、対話を拒否した強硬派の一団が暴発しました! 警備の手薄な隙を突かれ、彼らは武器を手にして……現在、南棟のホールへ向かってなだれ込もうとしています!」
私は息を呑んだ。
南棟のホール。それは先ほど、広場の混乱から避難させられた、通常利用者の弱者たちや学院の令嬢たちが集められている場所だ。
議論に勝った。正しい方針も決まった。
だが、現実の現場は会議室の机の上にあるのではない。怒りと不満に火がついた暴徒たちは、紙の上の結論など待ってはくれない。
本当の実務の価値は、この最悪の事態を流血なしに収束させられるかどうかに懸かっていた。




