第27話 勝てない相手と組む
実務演習室の机の上に広げられた仮想の領地地図と、膨大な被害報告の束。
今回の共同実習の課題は、『突発的な水害と疫病が同時発生した領地での、初動計画の立案と模擬運営』だった。
「ハルフォードさん、西区画の避難所三か所の収容人数と、現在の備蓄食料の割合を出して。私はその間に、王都への支援要請と、疫病の隔離エリアの線引きを終わらせるわ」
同じ班のパートナーに指名されたフェリシア様は、開始の鐘が鳴った直後から、驚異的な速度で情報の整理と初期計画の立案を進めていた。
彼女の羽ペンは迷いなく羊皮紙の上を走り、複雑な被害状況を瞬時に数字へと変換していく。私は渡された資料をめくりながら、彼女の圧倒的な処理速度に必死に食らいつこうとしていた。
「西区画の第一避難所は五百人、第二は……三百、いえ、四百人です。備蓄は、ええと……」
「遅いわ。すでに西の橋が落ちる予測が出ているのよ。あと三分で物資の輸送ルートを確定させないと、孤立する村が出るわ」
フェリシア様の言葉に悪意はない。ただ純粋に、被害を最小限に抑えるための最適解を最短距離で求めているだけだ。
しかし、その「正しさ」と「速さ」が、私の中に強烈な焦りを生み出していた。
――早くしなければ。足を引っ張ってはいけない。せっかく順位が三十一位まで上がったのに、ここで無能だと思われたくない。
私は焦るあまり、手元の報告書の裏面にあった『備蓄倉庫の一部浸水』という小さな注意書きを見落とし、そのままの数字をフェリシア様へ伝えてしまった。
「……待って。ハルフォードさん、この食料の数字、おかしくない?」
フェリシア様が計算の手を止め、私の出したメモを鋭く指摘した。
「この第二倉庫は川の近くよ。昨夜の雨量なら床下浸水しているはず。備蓄の三割は使い物にならない計算で動かないと、現地で飢える人間が出るわ」
「あっ……申し訳、ありません。確認を飛ばしました」
私は血の気が引くのを感じた。
フェリシア様の速さに合わせようと無理をして、自分が一番やってはいけない「確認漏れ」の小失敗を起こしてしまったのだ。個別訓練室で、失敗帳をつけて何度も直してきたはずの癖。
相手に勝てないからといって、相手と同じ戦い方をしようとして自滅する。これでは、何のために自分の『型』を作ってきたのか分からない。
「……状況の変更を伝達する」
私が深く自己嫌悪に沈みかけたその時、教壇の教員から容赦のない追加条件が投入された。
「大雨により、隣領からの支援物資を積んだ馬車が土砂崩れで足止めを受けた。物資の到着は五日遅れる。また、現地の救護所のうち二か所で疫病の二次感染が発生し、医療従事者の三割が離脱した」
演習室のあちこちから、絶望的な悲鳴が上がった。
ただでさえギリギリだった私たちの初期計画も、この条件追加によって完全に白紙に戻された。
支援物資の遅延と、医療従事者の欠員。
フェリシア様の顔から、完璧な余裕が消え去った。
「五日の遅延……! 残りの備蓄だけで持たせるには、各避難所への配分をすべて一から計算し直さないと。それに医療従事者の補充は……王都からの追加派遣を要請するにしても、三日はかかる。その間の隔離と治療の優先順位は……」
フェリシア様は、崩れた計画をすべて『最適解』で修復しようとしていた。
限られた物資をどう均等に配るか。足りない医療従事者をどう再配置して、すべての拠点を機能させるか。彼女の優秀な頭脳が、無数の変数を同時に処理しようとして激しく回転し――そして、情報量の多さに耐えきれず、完全に手が止まった。
「駄目、計算が追いつかない……! これでは、どこかで必ず破綻するわ」
彼女の羽ペンが羊皮紙の上で震え、インクの染みが広がった。
天才の思考が止まった瞬間。
私の頭の中は、これまでにないほど澄み切っていた。
私の失敗記録帳に記された分類の型。『予定外の物資不足』と『人員の急な喪失』。
パニックになった時、すべてを同時に直そうとしてはいけない。
「フェリシア様。全部を元通りにしようとするのは諦めましょう」
私は、震える彼女の手に自分の手を重ねて、ペンを止めさせた。
「諦めるって、何を言っているの!? 計算し直さないと、領民が……」
「すべての避難所に均等に物資を配る計算は捨てます。医療従事者をすべての救護所に配置するのも無理です。平等の計算は、今は一番の時間の無駄です」
私は領地地図を自分の前に引き寄せ、赤のペンで大きく三つの拠点を丸で囲んだ。
「高台にあり、浸水のリスクがないこの三つの拠点にのみ、残っている備蓄食料と医療従事者を全集中させます」
「そんなことをしたら、他の地域の人間はどうなるのよ!」
「他の地域の避難所は一度放棄して、住民をこの三拠点へ移動させる指示だけを出します。移動中の不満や混乱は出ますが、点在したまま物資も医療も届かずに全滅するよりはマシです」
それは、弱者を切り捨てる冷酷な判断ではない。限られた資源の中で、絶対に守らなければならない『生存』という最低ラインを死守するための、泥臭いトリアージだった。
フェリシア様は目を見開いて私を見た。
彼女のような完璧な計画を立てられる人間は、「拠点を捨てる」という大きな失点を伴う選択肢を、自分から選び取ることが心理的にひどく難しいのだと分かった。
だから、その嫌な決断は私がする。
「フェリシア様。三拠点への集中なら、計算の変数は減るはずです。移動する住民の誘導ルートと、再配置された人員での医療体制の構築。あなたの速さなら、今からでも間に合います」
「……!」
数秒の沈黙の後、フェリシア様の瞳に強い光が戻った。
「……分かったわ。西の拠点はすでに道が寸断されかけているから、東と中央の二拠点へ集約する形に修正する。誘導ルートの構築は一分で終わらせるわ。あなたは、移動に伴う近隣領主への事後報告の文書を作成して」
「はい!」
そこからのフェリシア様の処理速度は、まさしく神業だった。
私が複雑な盤面を強引に単純化したことで、彼女の能力は再び最高速度で回り始めた。彼女が弾き出した輸送計画に従い、私が不足する人員や礼法的な事後処理を補佐していく。
私一人では、到底この速度での再計算はできなかった。フェリシア様一人では、崩壊した盤面を捨てる決断に数ターン遅れていただろう。
彼女の圧倒的な処理能力と、私の立て直しの力が、初めて一つの現場で完全に噛み合っていた。
終了の鐘が鳴り、採点教員が各班の盤面を確認して回る。
「……多くの班が物資不足と人員減の計算に追われ、致命的な時間切れによる被害拡大を出している中、オルブライト嬢とハルフォード嬢の班は、拠点を絞ることで最悪の事態を防ぎ切った。見事なリスク管理と連携だ。総合評価、最高点とする」
教員の言葉に、私は深く息を吐き出して椅子に背中を預けた。
夕刻の演習室。片付けをしながら、フェリシア様がふと私に声をかけてきた。
「ハルフォードさん。途中で、私の計算を止めてくれてありがとう」
彼女は自分の手元にあった、インクの染みがついた羊皮紙を見つめていた。
「私、自分は誰よりもうまく計画を立てられると思っていたわ。でも、完璧な計画を作れるからこそ、それが崩れた時に、何かを切り捨てて形を変えるという『決断』が遅れてしまう。あなたのあの見切りの速さがなければ、確実に時間切れで全滅していたわ」
フェリシア様は顔を上げ、私を真っ直ぐに見た。
「あなたはただの努力家じゃなかったのね。私には絶対に真似できない、実務の強みを持っている。……一緒に組めて、本当に助かったわ」
天才からの、対等な実務家としての明確な承認。
私は胸の奥が熱くなるのを感じながら、静かに首を振った。
「私一人では、決断したところでその後の再計算が絶対に追いつきませんでした。フェリシア様の速さがあったからこそ、あの無茶な案が成立したんです」
私は、自分がすべての能力で彼女に勝つ必要などないのだと、心から理解していた。
私は天才にならなくていい。ただ、彼女が計算に詰まった時、私が横から盤面を整理してあげられれば、それで十分に私の価値はあるのだ。
「これからも、よろしくお願いしますわね。ハルフォードさん」
「ええ。こちらこそ、フェリシア様」
私たちは、互いの足りない部分を補い合う仲間として、初めて小さく微笑み合った。
翌日。
大講堂に集められた私たちに、学院長自らが教壇に立ち、重々しい声で告げた。
「諸君。いよいよ来週の火曜日が、王都の救恤局における『卒業最終実習』の本番日となる。これまでのあらゆる科目の集大成だ。心して臨むように」
講堂内が期待と緊張に包まれる中、学院長は少しだけ表情を硬くして言葉を継いだ。
「ただし、当日の環境は決して平穏とは限らない。諸君も耳にしているかもしれないが、現在、王都の一部で不穏な動きがある」
私は息を呑んだ。
「財政院の主導による、救恤局の『支援停止措置』……あの制度改定によって切り捨てられた者たちが、決定に対する大規模な抗議活動を、まさに実習の当日、救恤局の窓口で行うという予告が届いている」
演習室での仮想のトラブルではない。
私たちが実習を行うその日に、本物の現実の不満と怒りが、窓口へ押し寄せてくるというのだ。




