第26話 追い抜いた日
学院の大広間に張り出された月例の総合順位表の前は、いつものように多くの令嬢たちの熱気とため息で満ちていた。
私は人垣の少し後ろに立ち、ゆっくりと深呼吸をした。
入学診断試験の時、私の名前は百二十八人中、百二十七位にあった。下から二番目という絶望的な位置から始まり、失敗記録帳をつけて一つずつミスの原因を潰すことで、前回ようやく七十位まで這い上がった。
そして今回。救恤局での実習評価や、再審査基準案の提出といった直近の成績が反映された新しい順位表。
私はもう、一番下から名前を探すことはしなかった。
中段から少し上、上位層の入り口に差し掛かるあたりへ視線を向ける。
『第三十一位 リディア・ハルフォード』
自分の名前を見つけた瞬間、胸の奥で静かに、けれど力強い熱が弾けた。
三十一位。
それは間違いなく、私がこれまでの学院生活で得た最高の数字だった。才能がなく、不測の事態に弱く、アルベルトから「時間をかける価値がない」と切り捨てられた私が、自分の足で泥臭く積み上げてきた結果が、はっきりと数字になって表れている。
そして、私はその自分の名前から視線を二つ下へ移した。
『第三十三位 エルザ・ローゼンベルク』
その数字を見て、私は小さく息を呑んだ。
入学当初、十七位という高順位にいたエルザ様は、晩餐会実習での連鎖崩壊によって一度四十位台まで大きく順位を落としていた。
彼女はそこから腐ることなく、自身の失敗と向き合い、猛烈な勢いで立て直しを図ってきたのだ。事実、彼女の成績は前回の急落から綺麗にV字回復を描き、三十三位まで戻ってきている。相手が自滅したまま沈んでいったのではない。彼女自身も立ち上がり、全力を尽くして上を目指した。
そのうえで、私が上回ったのだ。
「……三十一位。見事なものですわね」
不意に横から声がして振り返ると、そこにはエルザ様本人が立っていた。
彼女は私の顔を見て、小さく息を吐いた。入学直後に私の百二十七位という順位を嘲笑していた頃の刺々しさは、そこにはない。
「あなたがいずれ私に追いつくかもしれないとは、晩餐会の実習で助けられた時から覚悟していました。でも、こんなに早く抜かれるとは思っていませんでしたわ」
「エルザ様……」
「私はあの大失態から、自分なりに手順を見直し、何とか三十三位まで戻しました。決して手を抜いたわけではありません。それでも、今回はあなたの方が上へ行った」
エルザ様は真っ直ぐに私を見据えた。
「不正だの贔屓だのと、見苦しい言い訳をするつもりはありませんわ。今回のところは、私の負けです」
言い訳を一切しない、その潔い言葉に、私は居住まいを正した。
彼女を打ち負かしてやった、というような安い優越感は湧かなかった。むしろ、これほど誇り高い人と正面から競い合えていることに、身の引き締まるような思いがした。
「……ありがとうございます。ですが、私がエルザ様より人間として優れているからこの順位になったわけではないと、自分でも分かっています」
私は掲示板を見上げた。
「順位は、その月の課題と自分の方法がどれだけ噛み合ったかという、一時的な結果でしかありませんから」
「分かっているなら結構ですわ」
エルザ様はふっと口角を上げ、強い対抗心を目に宿した。
「永久に勝った気にならないでちょうだい。私は必ず本来の順位へ戻ります。すぐにあなたを追い抜いてみせますから」
「はい。私も、簡単に抜かれるつもりはありません」
私たちは視線を交わし、短く頷き合った。
親友になったわけではない。私たちはこれからも、限られた順位と評価を奪い合う競争相手だ。だが、そこにはかつてのような一方的な見下しや、不当な敵意は存在しなかった。互いに失敗を知り、そこから戻ってきた者同士の、静かな敬意が成立していた。
私は改めて掲示板の最上段を見上げた。
『第三位 フェリシア・オルブライト』。
エルザ様を抜いたとはいえ、トップ層の彼女たちにはまだ遠く及ばない。フェリシア様は圧倒的な才能を持ちながら、誰よりも図書室で努力を重ねている。
自分の立ち位置の小ささと、先の道のりの長さを自覚しながら、私は大広間を後にした。
放課後の個別訓練室。
ユリウス教官は、私の今月の成績表を長机の上に広げていた。
「三十一位。入学時の位置を考えれば、順当な上昇だ」
教官の声はいつも通り平坦で、手放しで私を称賛するような真似はしなかった。
「はい。ありがとうございます」
「だが、手放しで喜べる数字でもない」
教官は成績表の項目を羽ペンで指し示した。
「今回の順位の押し上げ要因は、救恤局での実習と、君が提出した再審査基準案だ。情報整理や実務応用、危機対応の項目で、君はトップ層と同等の得点を叩き出している」
私は黙って教官の言葉を聞いた。
「しかし、基礎的な会計の処理速度や、語学、平時の礼法の項目を見ろ。これらは依然として五十位前後の水準だ。君は全体的に優秀になったわけではなく、突出した『立て直し』と『応用』の加点によって、一時的に総合順位の下駄を履いている状態に過ぎない」
厳しい指摘だった。しかし、それは私が大広間でフェリシア様の順位を見た時に感じた自己評価と完全に一致していた。
私は自分が急に完璧な令嬢になったなどと勘違いせずに済んでいる。教官が結果の数字だけを見て褒めそやすのではなく、その中身の『まだ弱い部分』を正確に可視化してくれるからだ。
「はい、自覚しております。処理速度そのものは、才能のある方々にはどうしても追いつけません。私はただ、自分の失敗帳から作った分類を使って、現場で迷う時間を削っているだけですから」
「自分の現在地を正確に測れているならいい」
教官は書類から視線を上げ、私を真っ直ぐに見た。
「三十一位という結果に驕らず、過程の分析を怠らなかったことは評価する。得意な武器ができたからといって基礎をおろそかにすれば、次は君が足元を掬われる番だ」
「……はいっ」
小さく、けれど確かな承認。
アルベルトから「使える人材だ」と機能だけで評価された時とは違い、教官が私の足掻いてきた過程を見て判断してくれていることが、今は何より嬉しかった。胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、私は深く頭を下げた。
翌日の午前中。
実務の授業が行われる教室で、担当教員が新たな課題の告知を行った。
「諸君も知っての通り、実務において一人で完結する仕事は存在しない。これからの重要課題として、異なる強みを持つ者同士が組んで行う『共同実習』を実施する」
生徒たちの間に緊張が走った。これまでの個人評価から、他者との連携が問われる段階へと進むのだ。
「今回の課題は、ある領地で発生した突発的な複合災害――水害とそれに伴う疫病の発生に対する、初動計画の立案と模擬運営だ。膨大な情報の処理と、不測の事態への柔軟な対応力の両方が求められる」
教員が名簿を手にし、無作為に決定されたという二人一組の班を発表していく。
私は自分の名前がいつ呼ばれるかと、手元で小さく指を組んでいた。
「次、リディア・ハルフォード嬢」
名前を呼ばれ、私は背筋を伸ばした。
「君の組の相手は――フェリシア・オルブライト嬢だ」
一瞬、教室がざわめいた。
第三位の完璧な天才と、第三十一位まで上がってきたとはいえ、処理速度に難のある私。
私は思わず、前方の席に座るフェリシア様の方を見た。彼女もゆっくりと振り返り、涼やかな瞳で私と視線を合わせた。
これまでは「勝てない相手」として、遠くの目標、あるいは自分の限界を知るための壁として存在していた人。
だが、今度の課題では彼女と競うのではない。
あの圧倒的な情報処理速度を持つ彼女と、立て直しに特化した私が、同じ盤面で一緒に働き、一つの現場を回さなければならないのだ。
全く違う能力を持つ相手と、どうやって対等な実務家として連携すればいいのか。新たなプレッシャーと少しの期待に胸を高鳴らせながら、私はフェリシア様に向かって静かに一礼した。




