第24話 もう一度働きたい
救恤局の面談ブースで、私は手に持った規定集のページを見つめたまま固まっていた。
『実務の習得遅延により支援を打ち切られた者は、いかなる理由があろうとも、一年間は同機関での再審査申請を行うことはできない』
無機質に並ぶ活字が、トーマスさんの「もう一度働きたい」という痛切な願いを冷酷に跳ね返している。
アルベルトたちが作った効率化のためのルールだ。成果を出せない人間が何度窓口に来ても、無駄な時間を割かないための防波堤。
「……駄目、なんですか」
トーマスさんが、私の表情から結果を悟り、膝の上でぎゅっと手を握りしめた。親指の付け根に、白く引きつった古い傷跡が見える。
「いえ……まだ、諦めるのは早いです」
私は規定集をパタンと閉じ、彼を真っ直ぐに見据えた。
「この規定は、『実務の習得が遅延した者』に対するものです。でも、私はあなたの能力が足りなかったから失敗したのだとは思っていません」
私はブースを出て、資料室にいるエルザ様とフェリシア様の元へ向かった。
「トーマスさんの、前回の支援記録の詳細を取り寄せられませんか。彼が『何に失敗して』打ち切られたのか、具体的な事実が知りたいんです」
私の頼みに、フェリシア様は「少し待って」と保管庫の棚へ向かい、膨大なファイルの中から目当ての書類を瞬時に引き抜いてきた。
「……あったわ。トーマス。元馬車具職人。前回の支援では、荷運びや食堂の配膳といった体力仕事の訓練施設へ回されているわね」
「どうしてそんな仕事ばかりに? 彼は怪我で右手の親指に力が入らないのに」
私が疑問を口にすると、エルザ様が窓口の初動記録を指でなぞった。
「最初の受付面談の記録に理由があるわ。『本人は早く収入を得ることを希望し、何でもやると申告したため、現在最も人手不足の業種へ配置した』……つまり、窓口の担当者が、彼の怪我の状態や職歴を詳しく聞き取らず、ただ頭数として空いている枠へ彼を押し込んだのよ」
私は息を呑んだ。
彼自身の怠慢でも、能力不足でもない。最初の『適性判断』の段階で、すでに致命的なエラーが起きていたのだ。
「なら……彼が訓練から脱落したのは、『能力不足』ではありません。身体条件と合わない仕事を押し付けられた『配置のミス』です。その前提が崩れれば、一年間の再審査不可という規定をすり抜けられるはずです!」
「待ちなさい、ハルフォードさん」
早口になった私を、フェリシア様が冷静な声で制した。
「理屈は通るけれど、それを救恤局に認めさせるには、ただ『配置ミスでした』と主張するだけでは足りないわ。『では、彼にはどんな仕事ならできるのか』という、具体的な適性と受け入れ先の代案をセットで提示しなければ、行政は動かないわよ」
「ええ。それに、彼の『できないこと』を証明するだけでは、また別の仕事で失敗するかもしれないとみなされるだけですわ」
エルザ様も現実的な壁を指摘した。
私は頷き、自分の鞄から『失敗記録帳』を取り出した。
「だから、彼が『できること』と『できないこと』を、今から私が具体的に分けます」
私は再び面談ブースに戻り、トーマスさんに向き合った。
「トーマスさん。前回の訓練では、重いものを長く持ったり、急いでいくつもの皿を運んだりすることができなかったのですよね」
「……はい」
「では、馬車具工房にいた頃の仕事について教えてください。革を裁断したり、縫い合わせたりする作業は、今の右手でもできますか?」
「ええと……親指で強く押さえるのは難しいですが、時間をかけて、道具の持ち方を工夫すれば……手首や他の指は動くので、細かい作業なら何とか」
「文字を読んだり、記録をつけたりすることは?」
「工房の在庫管理を手伝っていたので、文字の読み書きと簡単な計算はできます」
私は手元の用紙に、彼の条件を一つずつ分解して書き出していく。
以前、セリアさんに私の失敗帳のやり方を押し付けて失敗しかけた経験が活きていた。私の『パニックになって固まる』という失敗の型と、トーマスさんの『身体的な不適合による失敗』の型は全く違う。
だから、彼には彼のための分類を作るのだ。
『できないこと』:重いものを長時間保持する。急いで複数の物品を運ぶ。強い握力を要する作業。
『できること』:文字の読み書き。計算。時間をかけた手先の細かい作業。道具の工夫。
「つまり、あなたは『即座の力仕事』には向いていませんが、『手元で時間をかけて処理する軽作業や事務の補助』なら、十分に実務をこなせる可能性が高いということです」
私が書き出したリストを見て、トーマスさんは食い入るように紙を見つめていた。曖昧な自己否定の塊が、具体的な「条件」へと解きほぐされていく。
私はそのリストをフェリシア様とエルザ様の元へ持ち込んだ。
「この条件に合う、現在募集中の再訓練枠はありませんか?」
フェリシア様はリストを一瞥すると、即座に複数の帳簿を照合し始めた。
「……王立文書館の修繕部門、あるいは製本工房の仕上げ工程。このあたりなら、重い荷物を運ぶ必要はなく、座って自分のペースで作業を進められるわ。募集も出ているわね」
「申請書類の書き方は私が指導しますわ。過去の配置ミスの根拠と、新たな適性の証明を併記して、特例として受理させる構成で組み上げます」
エルザ様が羽ペンを取り出し、美しく正確な書式で嘆願の体裁を整えていく。
三人の共同作業によって完成した再審査の申請書を持ち、私たちは救恤局の実務担当官のデスクへ向かった。
中年の厳しい顔つきをした担当官は、私たちの提出した書類と、フェリシア様が添えたデータ、そしてエルザ様が代筆した理路整然とした申請理由を、無言のままじっくりと読み込んだ。
「……確かに、過去の訓練記録を見る限り、本人の資質というよりは初期配置のミスマッチと言えなくもないな」
担当官はペンを置き、冷徹な目で私たちを見据えた。
「だが、学生諸君。君たちがどれだけ熱意を持って書類を整えたところで、彼が次の職場で必ず役に立つという保証はない。特例を乱発すれば制度が崩壊する」
「承知しております」
私は前に出て、しっかりと相手の目を見た。
「必ず成功するとは申しません。ただ、彼の本当の適性を測る機会を与えられないまま、不適合の烙印で終わらせてしまうのは、労働力という資源の損失だと考えます」
担当官は少しの間沈黙し、やがて短く息を吐いた。
「……製本工房の補助要員として、二週間だけ試行の訓練枠を与える。そこで指導員から『見込みなし』と判断されれば、次こそ本当に打ち切りだ。いいな」
「はい! ありがとうございます!」
面談ブースに戻り、結果を伝えた時のトーマスさんの顔を、私は一生忘れないだろう。
「試せるんですか……俺、もう一度、やってみてもいいんですか」
彼は顔を覆い、ボロボロと大粒の涙をこぼした。
「本当に、ありがとうございます。ハルフォードさん。俺、絶対に今度は頑張りますから……!」
何度も頭を下げる彼を見て、私の胸の奥は熱くなった。
けれど、私は自分が彼の人生を救った救世主だなどとは、微塵も思わなかった。
私はただ、彼が失敗した原因を分解し、彼に合った別の道への『入口』を作っただけだ。そこから先、彼が新しい職場でつまずかずにやっていけるかどうかは、彼自身の問題だ。
大成功が約束されたわけじゃない。また転ぶかもしれない。それでも、「もう一度挑戦していい」という事実が、どれほど人の心を前へ向かせるか。私はそれを、自分自身の経験から痛いほど知っていた。
その日の実習講評。
すべての班の報告が終わり、ユリウス教官が教壇の前に立った。
「ハルフォード嬢。君たちの班は、過去の記録の矛盾を突き、対象者の適性を再評価することで、一人の人間に再び試行の機会を与えた」
教官の平坦な声が、静かな講堂に響く。
「情報整理、聞き取り、そして制度の隙間を縫う論理の構築。見事な連携だ。実務官としての役割を十二分に果たしたと言える」
「ありがとうございます」
私が頭を下げようとした瞬間、教官の言葉が鋭さを帯びた。
「だが、思い上がるなよ」
私は顔を上げた。教官は私を、いえ、この講堂にいる全員を真っ直ぐに見据えていた。
「君たちが今回やったのは、三人の優秀な人材が、数日がかりで『一人の対象者』につきっきりになり、ようやく一つの機会をもぎ取ったという手作りの成果だ。それは尊い。だが、行政が相手にしているのは一人ではない」
教官の言葉が、重くのしかかってくる。
「救恤局には、毎日何百人という支援対象者が押し寄せる。その全員に対して、君たちのように三人一組で数日かけて適性を洗い直すことができるか? 予算も、人員の時間も到底足りない。アルベルト殿が一律選別の制度案に関わったのは、そういう現実があるからだ」
講堂が静まり返る。アルベルトの合理性が、再び巨大な壁として私たちの前に立ち塞がった。
「一人の例外を救うことはできた。では、それを『百人を救う仕組み』にするには何が必要か。個人の善意や偶然のひらめきに頼らない、持続可能な方法とは何か」
ユリウス教官は、私に真っ直ぐに視線を向けた。
「それが、君たちが次に考えるべき課題だ」




