第23話 表から消えた費用
救恤局の地下にある薄暗い資料室で、私は分厚い帳簿の山と格闘していた。
本日の実習課題は、昨日配られた財政院の『支援制度改定後の成果表』が、何を測り、何を測っていないのかを整理すること。
私は、昨日見つけた「支援を打ち切られた後、別の窓口へ向かった人」の記録を追跡するため、同じ班になったエルザ様、フェリシア様と手分けして過去の書類を漁っていた。
「ハルフォードさん、その人が救恤局の再就業支援を打ち切られた後の足取りを追うなら、見る帳簿が違いますわ」
エルザ様が、私が持っていた書類を横から覗き込んで指摘した。彼女は貴族としての慈善活動や、役所の窓口の業務手順に関する知識に明るい。
「生活の基盤を失った者が次に頼るのは、大抵が居住区の管轄にある『家族扶助』の窓口か、教会の『臨時宿泊所』の申請です。そちらの別部署の台帳と照合しなくては」
「なるほど……ありがとうございます、エルザ様。そっちの棚を探してみます」
私はエルザ様の助言に従い、別部署の帳簿を引っ張り出した。数日間の記録を一つずつ目で追い、該当する名前を探していく。
「……ありました! 見てください!」
私は一つのページを見つけ、弾かれたように声を上げた。
「この方です。支援を打ち切られた二日後に、高額な医療費の全額免除を申請しています。その額、なんと再訓練にかかる費用の三倍です! ほら、支援を打ち切ったせいで、結局もっと大きな費用が国にかかっているじゃないですか。これで、あの制度が間違っていると証明できます!」
アルベルトの冷徹な数字を覆せる決定的な証拠を見つけた興奮で、私の声は上ずっていた。彼を見返せる。その思いが先走り、心臓が高鳴る。
「待って、ハルフォードさん。少し見せてちょうだい」
フェリシア様が冷静な声で私の手元から帳簿を引き寄せた。彼女の目は、私が見つけた名前の文字列だけでなく、その周辺の細かな数字の羅列を瞬時にスキャンしていく。
「……駄目ね。この記録は証拠にはならないわ」
「えっ?」
「名前は同じだけれど、個人を識別する登録番号が違うわ。支援を切られたのは四〇二番、この医療費を申請したのは四〇九番。同姓同名の別人よ。それに、申請された日付も制度改定の前の月になっているわ」
フェリシア様の淀みない指摘に、私はサッと血の気が引くのを感じた。
「あ……本当だ……」
「結論を急ぎすぎよ。数字の計算や期間の重複確認は私がやるから、あなたは正確な記録の抽出だけに集中して」
「はい……申し訳ありません」
私は深く反省し、熱くなっていた頭を冷やした。
感情だけで、アルベルトが原案作成に関わった制度を「悪だ」と決めつけ、彼を打ち負かしたいという欲望が目を曇らせていたのだ。これでは、パニックになって手元の資料に逃げ込んでいた過去の私と何も変わらない。
失敗記録帳の教訓を思い出す。焦った時こそ、確認手順を飛ばさないこと。
「……もう一度、登録番号と日付を指差し確認しながら探します」
それから一時間後。
エルザ様が窓口の手順から対象者を絞り込み、私が見つけ出した記録を、フェリシア様が正確に計算・検算していく。三人の共同作業の末に、私たちはついに、一つの明確な『事実』を確定させた。
午後に行われた実習講評の場。
教壇にはユリウス教官と、視察に訪れている財政院のアルベルトが並んで立っていた。
「――以上が、私たちの班の報告です」
私は、三人でまとめ上げた報告書を手に、真っ直ぐに前を向いて発言した。
「財政院の提出した成果表は、確かに『救恤局の再就業支援部門』の支出削減と、対象者の短期就職率の改善を正確に測っています。しかし、その表には、支援を打ち切られた人々がその後どうなったかという『別勘定への移行費用』が含まれていません」
私は一つの具体的な事例を提示した。
「例えば、この登録番号七一五番の男性。彼は再訓練の成果が遅いとして二週間で支援を打ち切られました。救恤局の支出としては、そこで止まっています」
私は息を吸い込み、アルベルトの顔を見た。
「しかし彼はその十日後、居住区の窓口で『家族への緊急食糧扶助』を申請し、さらにその数日後には路上での諍いから『治安維持局』の警備隊が出動する事態を起こしています。これら別部署の帳簿に記録された対応費用を合算すると、彼への再訓練を継続した場合の費用を上回る数字になります」
講堂が静まり返った。
それは、感情的な反発でも、道徳的な演説でもない。アルベルトと同じ『数字』という土俵で見つけ出した、たった一つの、しかし明確な事実だった。
アルベルトは不快感を露わにするでもなく、ただ冷静に私たちの提出した書類を受け取った。
彼の視線が、フェリシア様が検算した数字と、エルザ様が添付した窓口の記録証明を素早く追っていく。
「……なるほど」
やがて、アルベルトは静かに頷いた。
「確かに、私の作成した表の測定範囲は、あくまで『再就業支援部門の単年度予算』に限定されていた。支援停止後に別部署へ波及する社会的費用までは、変数の範囲に含めていなかった。……事実の通りだ。測定範囲の穴を突く、極めて正確な指摘と言える」
彼は言い訳もせず、数字の誤魔化しに逃げることもなく、あっさりと自分の資料の不備を認めた。そこには、私をかつて切り捨てた時の冷徹な合理性が、そのまま私たちが提示した事実の受け入れに向けられていた。
私は小さく息を吐き出した。
彼に勝ったという高揚感はなかった。ただ、彼が見落としていたものを、私が私のやり方で拾い上げることができたという、静かな手応えだけが胸の奥に残った。
「ハルフォード嬢、ならびにオルブライト嬢、ローゼンベルク嬢。見事な連携だ」
ユリウス教官が、初めて口を開いた。
「表から消えた人間が透明になるわけではない。その現実を別帳簿から追跡し、具体的な数字として可視化した手腕は高く評価する」
教官の言葉に、私たちは小さく頭を下げた。
「だが、早合点するな」
教官の鋭い声が、私の少しだけ緩みかけた気を引き締めた。
「君たちが見つけたのは、あくまで『費用が別勘定へ移った一つのケース』に過ぎない。この一件の事例だけをもって、制度全体が失敗であると一般化するのは分析者として非常に危険な飛躍だ。全体の傾向を覆すには、まだデータが足りない」
「……はい。承知しております」
教官の言う通りだ。これだけでアルベルトの論理すべてを崩せるわけではない。
それでも、「支援を止めれば費用が消えるわけではない」という一本の楔を打ち込むことには成功したのだ。
実習が終わり、私は再び救恤局の面談ブースへと戻った。
昨日、不手際な聞き取りをしてしまった担当ケースの青年、トーマスさんが、約束通り私の前に座っていた。
「トーマスさん。昨日は、あなたの適性について整理させていただき、ありがとうございました」
「あの……ハルフォードさん」
トーマスさんは、昨日よりも少しだけ真っ直ぐに私の目を見て、口を開いた。
「昨日、ここで話を聞いてもらって……俺は何もできないわけじゃなくて、ただ親指に負担がかかる作業ができないだけなんだって、少しだけ思えるようになりました。だから……」
彼は膝の上で両手を強く握りしめ、切実な声で言った。
「もし、そういう仕事を見つけられるなら……俺は、もう一度働きたいです。再審査を受けさせてください」
私はハッとして、彼を見た。
一度は完全に心を閉ざし、働くことを諦めかけていた彼が、自らの意志で「もう一度」と口にしてくれたのだ。私が失敗記録帳から学んだ方法が、確かに一人の青年の足を再び前へ向けさせた。
「分かりました。すぐに再審査の申請書類を準備します」
私は力強く頷き、ブースに備え付けられていた手続きのマニュアルを開いた。
だが、そのページの一文に目を落とした瞬間、私の手はぴたりと止まった。
『※実務の習得遅延により支援を打ち切られた者は、いかなる理由があろうとも、一年間は同機関での再審査申請を行うことはできない』
冷酷な規定の文字が、私の前に立ちはだかっていた。
本人がもう一度やり直したいと願っても。私が彼の適性を見つけ出したとしても。
財政院が採用した「効率的な制度」のルール上、彼の再審査は門前払いになる。ただ「やり直せばいい」という感情論だけでは、決して通らない壁がそこにあった。




