第22話 正しい数字
救恤局の簡素な会議室。長机の上に広げられた一枚の紙を前に、私は完全に言葉を失っていた。
昨日の夕刻に担当官から配られた『支援制度改定後の成果表』。財政院の主導で進められた新しい選別制度が、いかに優れているかを示す資料だ。
「どうした、ハルフォード嬢。表の数字が読めないか」
見回りをしていたユリウス教官が、私の後ろで足を止めた。
「いえ……数字は、読めます。救恤局の全体の支出額は、昨年度に比べて二割減少しています。そして、支援対象者が再就職を果たすまでの平均日数は、四週間から十日へと大幅に短縮されています」
それは、紛れもない『改善』の数字だった。この表を作成した財政院の――アルベルトの論理が、現実の成果として証明されている。
「ただ……」
私は昨日の面談で出会った、トーマスさんの顔を思い浮かべた。
「この制度では、再就職までに時間がかかる人や、適性を見つけるのが難しい人は、早期に支援を打ち切られます。……切り捨てられた人がいるのに、この数字を手放しで『正しい』と言っていいのでしょうか」
感情が先走り、「間違っている」と断言したかった。だが、私の口から出た言葉はひどく弱々しかった。
国家の予算には限りがある。全員を無期限に救えないからこそ、見込みのある者へ資源を集中させ、これだけの成果を出した。その現実の数字を前に、私が「可哀想だから」という感情論をぶつけたところで、何の説得力もないことは自分が一番よく分かっていた。私が正しいという前提で、相手の論理を否定することはできなかった。
教官は私の感情的な反発を肯定も否定もしなかった。
「本日の実習課題は、この制度の道徳的な賛否を問うものではない」
教官は会議室に集まった生徒たち全体へ通る声で告げた。
「諸君に与える課題は一つ。情報整理だ。この成果表が『何を測っているか』、そして『何を測っていないか』を明確に分け、報告書として提出しなさい」
政策の是非そのものを論じるのではなく、目の前にある資料を客観的に読解し、整理する。それが学院の求める実務だった。
私たちは数人ごとのグループに分かれ、分厚い関連資料の束と格闘することになった。私のテーブルには、エルザ様とフェリシア様の姿があった。
「まずは、この『平均再就職日数・十日』という数字の前提条件を洗い出しましょう」
フェリシア様が、膨大な資料の中から数枚の規定書を素早く抜き出した。彼女の情報の処理速度は相変わらず圧倒的だ。
「改定後の規定によれば、支援開始から二週間以内に『明確な技能向上の見込み』が確認できない対象者は、その時点で再就業支援の枠から外されます。つまり、この『平均十日』という数字の分母には、最初から時間のかかる人たちが含まれていませんわ」
「なるほど、窓口の処理手順も変わっていますわね」
エルザ様が、現場の運用マニュアルを指でなぞりながら言葉を継ぐ。
「以前は担当官が各対象者に適性を聞き取りながら時間をかけて再訓練先を探していましたが、今は最初の適性検査で基準点に満たなければ、即座に支援停止の処理へ回されます。手続きが簡略化された分、窓口の人件費も浮いていますわ。これが支出減の大きな要因の一つです」
二人の的確な分析を聞きながら、私はアルベルトの思考の輪郭がはっきりと浮かび上がるのを感じた。
彼は数字を捏造したわけでも、悪意を持って困窮者を痛めつけようとしたわけでもない。
確実に成果が出る層へ予算と時間を集中し、それ以外の時間がかかる層を測定範囲から弾き出すための手続きを、冷徹に構築したのだ。結果として、表の中にある数字は美しく改善した。
それが彼の正しさだった。彼が私との婚約を解消した時に使ったのと同じ、天秤の測り方。
「……表が測っているものは、分かりました」
私は、二人が整理してくれた情報を手元の用紙に書き写しながら言った。
「測っているのは、『短期で再就職できる見込みのある人たちだけの、支出と成果』です。では、測っていないものは何でしょうか」
フェリシア様が羽ペンを止めて、私を見た。
「それは、規定から外れた人たちのことでしょうね。でも、支援が打ち切られたなら、救恤局の帳簿からは当然消えますわ。消えたものをどうやって数えるというの?」
「……分かりません」
私は正直に自分の無力を認めた。感情としては、あの表のどこかに穴があるはずだと叫んでいる。でも、それを証明するための具体的な方法が分からない。すぐに完璧な代案を出せるほどの知恵は、私にはなかった。
私は助けを求めるように、見回りをして歩くユリウス教官の姿を探した。
教官と視線が合う。彼は私の手元にある白紙の項目を見て、短く口を開いた。
「分からないなら、数えていないものを探せ」
答えは教えない。ただ、私が自分で考えるための思考の補助線だけを引いて、彼は去っていった。
『数えていないものを探す』。
私は自分の鞄に入っている、古びた失敗記録帳を無意識に撫でた。
私が失敗帳をつける時にやっていることは何だ?
例えば「晩餐会でグラスを割った」という失敗で思考を止めない。グラスを割った『後』に、誰がそれを片付け、その間に誰が来賓の対応をし、予定がどう狂ったか。見えている失敗のその先へ、事実を分解して追いかけることだ。
「……支援を停止された人たちは、その後どうなったんでしょうか」
私の呟きに、エルザ様が怪訝な顔をした。
「どうなったって……再就職できなかったのだから、元の生活に戻ったか、ご家族に頼るしかないのではなくて?」
「でも、生活の基盤が完全にない人が、支援を打ち切られて、ただ静かに消えていくなんて不自然です。もし、支援枠から外れたトーマスさんのような人たちが、それでも何とかしようと別の窓口へ向かったとしたら?」
私は立ち上がり、資料の山から『支援停止者リスト』と、救恤局以外の『別部門の利用記録』を探し始めた。
「エルザ様。窓口の手順マニュアルに、支援を打ち切った後の、異議申し立てや別機関への案内に関する項目はありますか?」
「え? ええと……待って、今探すわ」
エルザ様が素早くページをめくる。フェリシア様も私の意図に気づいたのか、無言で別の帳簿を引き寄せて目を通し始めた。
しばらくして、私が追っていた一人の支援停止者の記録が、別の書類の束にひっかかった。
「……ありました」
私はその一行を指差した。
「この方、支援を打ち切られた後、二日後に『特別生活相談』の窓口へ来ています。そしてその一週間後には、『治安維持局の臨時給付』の申請所に名前があります」
フェリシア様が目を見開いて私の指先を覗き込む。
「それって……」
「はい。この方は、再就業支援の表からは『打ち切られた』ことで消えました。でも、別の名目、別の窓口の記録に何度も戻ってきています。そのたびに、相談員の人件費や、別の形での給付金という費用が発生しているはずです」
アルベルトの作った美しい成果表。
そこから消えた人たちは、決して透明になって消滅したわけではなかった。
表からこぼれ落ちた後も彼らは現実を生き続け、別の場所で、別の名前の費用として王国の予算を削り続けているのだ。
「……この表が測っていないもの」
私は、ようやく見つけたその小さなほころびを見つめながら、静かに息を吐き出した。
「それは、支援を切った『後』に別の場所で発生している、見えない費用です」
実習の終了時間が近づく中、私たちはこの『表から消えた後』の事実をどう報告書としてまとめるか、作業を急いだ。
これが本当にアルベルトの論理を覆すだけの証拠になるかは分からない。だが、感情で喚くのではなく、彼と同じ「数字と記録」という土俵で戦うための手がかりを、私は確実に掴みかけていた。




