第21話 最後の実習地
王都の中心から少し離れた、灰色の石造りの建物。
それが、私たちの学院生活最後の実習地だった。
「これより、最終実習を開始する」
教壇の代わりに設けられた簡素なブースの前で、引率の教員が告げた。
「ここは王都救恤局――怪我や病、あるいは何らかの理由で職と生活の基盤を失った者たちを支援する役所だ。諸君には、ここに併設されている再就業支援施設の業務を補佐してもらう」
学院の美しい大理石の廊下とは違う、冷たい床と、少し埃っぽい空気。待合室の長椅子には、力なく俯く人々が所在なげに座っているのが見えた。
「諸君には一人ずつ、実在の支援対象者のケースを割り当てる。評価項目は『情報整理』『聞き取りにおける礼法』『事実確認の正確さ』だ。相手の尊厳を傷つけず、次の就業へ繋がる正確な記録を作成しなさい」
見学ではなく、明確な採点を伴う実戦。
私たち生徒はそれぞれ別室の面談ブースに分かれ、割り当てられた対象者と向かい合うことになった。
私のブースへ通されたのは、ひどく痩せ細った、少し背の丸まった青年だった。事前の資料には『トーマス・二十二歳。元・馬車具工房の職人』とある。
「初めまして。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
私は学院で学んだ通りの礼法で頭を下げた。だが、トーマスさんは椅子に浅く腰掛けたまま、不安げに目を泳がせるばかりだった。
「あ、あの……俺は、その……」
「緊張なさらなくて結構です。今後の支援のために、いくつかお伺いさせてください。資料によりますと、工房を退職された後、いくつかの仕事に就いてはすぐに辞められているようですが……何が上手くいかなかったのでしょうか?」
「えっと、それは……」
「前の職場では、具体的にどのようなミスを? どうして次の職場でも続かなかったのですか?」
私は焦っていた。情報を整理しなければという思いが先走り、矢継ぎ早に質問を重ねてしまったのだ。
トーマスさんは身をすくませ、自分の膝の上で両手を強く握りしめた。
「……俺が、駄目なんだと思います」
「え?」
「工房で怪我をしてから、何を任されても上手くできなくて……怒られてばかりで。俺はもう、まともに働けないんです」
彼は完全に心を閉ざし、自己否定の殻にこもってしまった。
私はハッとして口を噤んだ。情報を引き出そうとするあまり、相手を尋問のように追い詰め、彼の一番痛い部分を乱暴に抉ってしまったのだ。聞き取りの礼法としては最悪の失敗だった。
ブースの少し離れた場所には、引率役のユリウス教官が立っていた。
教官は私の失敗を見ていたはずだが、助け船を出すことはせず、ただ静かに時計へ視線を落としている。彼は答えをくれない。この場をどう立て直すかは、私自身が選ばなければならない。
少し深呼吸をして、私は頭の中を切り替えた。
隣のブースからは、エルザ様の凛とした、けれど温かみのある声が聞こえてくる。彼女は相手の不安を取り除くような完璧な礼法と手順で、相手の身の上話を引き出しているようだった。
少し離れた資料室では、フェリシア様が膨大な過去の職歴データを瞬時に読み解き、担当者の適性を的確に分類しているはずだ。
私には、エルザ様のような美しい対話術も、フェリシア様のような情報処理速度もない。
でも、私には、私だけが泥水の中で身につけた方法がある。
「トーマスさん。先ほどは、急かすような聞き方をして申し訳ありませんでした」
私はペンを置き、改めて彼に向き直った。
「……いえ」
「『自分が駄目だ』とおっしゃいましたが、少しだけ、細かく教えていただけませんか」
私は彼が自己否定のために使っている大きな言葉を、一つずつ切り分ける作業を始めた。それは、私が個別訓練室で、自分の『失敗記録帳』と向き合ってきた時のやり方と全く同じだった。
「工房で怪我をされたとのことですが、それは右手のどの部分ですか?」
「あ……親指の付け根、です。深く切ってしまって」
「今は、痛みはありますか? それとも、動かしにくい状態ですか?」
「普段は痛まないんですが……重い金槌を長く握ったり、細い釘を摘んだりしようとすると、力が入らなくて、落としてしまうんです」
トーマスさんの言葉に、少しずつ具体的な「事実」が混ざり始めた。
「なるほど。では、その後に就かれた荷運びの仕事が続かなかったのは、重いものを長く持てなかったからですか?」
「はい。落として、荷物を駄目にしてしまって」
「では、食堂の裏方仕事はどうでしたか? 包丁を握るのも難しかったのでしょうか」
「ええと、包丁は……少しは平気だったんですが、急いでたくさんのお皿を運べと言われた時に、やっぱり落としてしまって……」
彼は怠惰なわけでも、働く意欲がないわけでもなかった。
ただ、右手の親指に力が入らないという『一つの身体的条件』が、就いた先々の職場の要求と噛み合わず、ミスを繰り返し、その結果として「自分は何もできない」と思い込んでしまっただけなのだ。
それは、実務処理の速度が遅いという欠点一つで「時間をかける価値がない」と切り捨てられ、自分は無能だと絶望していたかつての私自身の姿に重なった。
「トーマスさん。あなたは『何もできない』わけではありません。ただ、親指に強い負担がかかる作業と、素早く重いものを運ぶ作業が『今はできない』だけです」
私は手元の記録用紙に、彼のできないことと、問題なくできる作業を分けて書き込んだ。
「重いものを握り続けない仕事。焦らずに両手を使える作業。それを見つけることができれば、あなたは必ずまた働けます」
私の言葉に、トーマスさんはおずおずと顔を上げた。彼の目に、絶望とは違う、ほんのわずかな光が宿るのを見た。
実習の第一段階が終わり、私たちは各自の面談記録を教員へ提出した。
私は自分の記録用紙を振り返り、小さく息を吐いた。相手の人生を一度の面談で救えるような魔法は使えない。けれど、絡まり合った彼の自己否定を解きほぐし、次の支援へと繋がる正確な「事実」として記録に残すことだけはできたはずだ。
ユリウス教官は提出された私の記録を一瞥すると、小さく頷いた。何も言わなかったが、私の方法が現場で機能したことを認めてくれたのだと分かった。
夕刻。本日の実習の総括として、講堂に集められた私たちに、救恤局の担当官から一枚の資料が配られた。
「これは、財政院の主導で先日行われた、支援制度の改定後の成果表です」
担当官の言葉に、私は手元の資料に目を落とした。
そこには、以前アルベルトが作成していた、あの冷徹な計算表の『結果』が記載されていた。
『短期的な就業見込みの低い対象者の支援を打ち切り、見込みの高い者へ資源を集中させた結果』。
表に並んだ数字は、残酷なほど明白だった。
救恤局の全体の支出は大幅に削減されている。そして、支援対象者が再就職を果たすまでの平均日数は、以前より目に見えて短縮されていた。
つまり、アルベルトが原案作成に関わり、財政院が採用した制度は、国家の財政と効率という観点において、明確に『改善している』という結果を叩き出していたのだ。
私は、配られた紙の縁を強く握りしめた。
今日出会ったトーマスさんのような、一度のつまずきで時間を必要としている人々。彼らのような存在を切り捨てれば、確かに平均値は良くなる。全体の数字は美しくなる。
感情としては納得できない。切り捨てるべきではないと叫びたい。
だが、この支出削減と平均日数の改善という『正しい数字』を前にして、私は反論の言葉を見つけられなかった。




