第20話 使える人材と言われても
学院の実務演習が終わり、生徒たちが三々五々、広間から退出していく中、私は一人で資料の整理をしていた。
ふと、背後に気配を感じて振り返る。
そこには、視察の合間を縫ってやってきたらしい財政院のアルベルト・グレイヴが立っていた。
「ハルフォード嬢。少し時間はいいか」
彼の声は、あの夜会の時と変わらず、ひどく静かで平坦だった。私は小さく息を吸い込み、手元の資料を置いて彼に向き直った。
「はい。何でしょうか、グレイヴ様」
「先日の、領地経営模擬戦の最終記録を見せてもらった」
アルベルトは単刀直入に切り出した。彼の目は、私を個人的な感情で見るのではなく、純粋なデータとして解析しているように見えた。
「君の班は、初動の投資判断が遅く、平常時の経済成長率も低調だった。だが、中盤で投入された大規模なインフラ崩落の事故において、君の下した『成長を捨てて被害の極小化に全振りする』という見切りの判断は、非常に的確だった」
彼は淡々と、私の評価すべき点を並べ立てた。
「その結果、危機対応と損失抑制という限定的な局面においてのみ、君はフェリシア・オルブライト嬢を凌ぐ数字を出した。……驚いたよ。私の事前の評価は、どうやら一部誤っていたようだ」
アルベルトは、かつて私を無能だと見限った自身の判断を、あっさりと修正した。
「君は以前のように、一つの不測の事態でパニックを起こして連鎖崩壊を招くことはなくなった。今の君なら、限定的な局面の補佐役として、十分に実務で『使える人材』と言えるだろう」
使える人材。
その言葉が、私の耳の奥で反響した。
もし、婚約していた頃の私がこの言葉を聞いたなら。アルベルトの要求する水準に追いつけず、彼の足手まといになっていることに怯えていた私なら、この「使える」という一言をもらうために、何だってしただろう。嬉しくて、泣いて喜んだかもしれない。
けれど、今の私の胸の奥は、不思議なほど静かだった。
歓喜も、彼を見返してやったという優越感も湧き上がってこない。ただ、冷ややかな違和感だけが、静かに波紋を広げていた。
アルベルトは今、私を一人の人間として見直したわけではない。彼の持っている巨大な計算表の、一つの項目に適合する『有用な部品』として、私の価値を測り直しただけなのだ。
私が個別訓練室の長机で、どれほど惨めな思いで三十七個の失敗と向き合ってきたか。足を踏んで転びそうになりながら、それでも沈黙せずに食らいついた過程にどんな痛みがあったか。彼はそんなものには一顧だにしない。出力された「結果」が、彼にとってのすべてだ。
不意に、ユリウス教官の顔が脳裏をよぎった。
教官は、私がテストで低い点数を取った時も、無様に体勢を崩した時も、結果だけで私を切り捨てたりはしなかった。私がどこでつまずき、そこからどうやって立ち上がろうとしたか。その不格好な「過程」を、常に隣で見ていてくれた。
私はもう、アルベルトの持つ『結果の評価軸』だけで自分の価値を決められたくはなかった。彼に「有用だ」と認められることが、私のゴールではなくなっていたのだ。
「……評価を改めていただき、光栄です、グレイヴ様」
私は静かに頭を下げた。罵倒する気も、冷たく突き放す気も起きなかった。
「ですが、私はまだ、やっと自分の失敗を少しだけ制御できるようになったばかりの生徒です。皆様のように、初見ですべてを速くこなすことはできませんから」
アルベルトは私の淡々とした反応に、ほんの少しだけ意外そうな顔をした。私がもっと感情的に喜ぶか、あるいはかつての仕打ちに対して反発してくると予想していたのかもしれない。
「アルベルト様。お話し中、失礼いたします」
凛とした声が割り込んできた。
廊下の奥から歩み寄ってきたのは、クラリッサ・レーヴェン様だった。彼女はアルベルトの隣に並び立つと、私に軽く目礼をした。
「ローゼンベルク様を探していましたが……ここでハルフォード様の能力評価の真っ最中でしたのね」
クラリッサ様はアルベルトへ視線を向けた。その眼差しは、未来の夫へ向けるような甘いものではなく、対等な実務家としての鋭さを帯びていた。
「アルベルト様。彼女が残した実務の数字を正当に評価なさるのは、結構なことですわ。ですが、能力の評価を改めることと、かつて公の場で彼女の尊厳を傷つけたことに対する礼を欠いたままであることは、全くの別問題です」
アルベルトは眉を微かにひそめた。
「私は、彼女の現在の実力を事実として述べたまでだが」
「ええ、事実でしょうね。ですが、人をまるで部品の適合度を測るかのように『使える』と語る癖は、あまり美しい振る舞いとは言えませんわ」
アルベルトは少しの間沈黙し、やがて短く息を吐いた。
「……そうだな。言い方が無遠慮だったかもしれない。失礼した、ハルフォード嬢」
彼はクラリッサ様へ一度視線を向け、短く謝罪すると、「クラリッサ、行くぞ」と彼女を促した。
「ごきげんよう、ハルフォード様。先日の模擬戦の判断、私も見事だと思いましたわ」
クラリッサ様は私に静かに微笑むと、アルベルトの後を追って歩き出した。
私は二人の背中を見送りながら、小さく息を吐き出した。
かつての私は、クラリッサ様に対して「私より優秀だから、アルベルトに選ばれた女性」という強烈な劣等感を抱いていた。私から婚約者を奪った、手の届かない完璧な存在だと。
けれど今、彼女の背中を見て、その劣等感が薄れつつあるのを感じた。
彼女はただ「私の優秀な代替品」ではない。能力の高さに驕らず、人への礼を重んじる、彼女自身の確固たる価値観を持った一人の女性なのだ。
彼女と私を並べて比較し、「自分は劣っているから価値がない」と嘆く必要なんて、最初からなかったのだ。私は私なりに、自分の手札で勝負できる場所を探せばいいだけのこと。
アルベルトの評価という呪縛から、私が完全に解き放たれた瞬間だった。
翌日。
大講堂に集められた私たち生徒に、学院生活の集大成となる『最終実習』の概要が告知された。
「諸君がこれまでに学んできたすべての知識と経験を問う、学院生活最後の実習地を発表する」
教壇に立つ教員の声に、講堂内の空気がピンと張り詰める。
これまでの実習は、晩餐会や模擬戦といった「貴族の生活圏内」のものが主だった。次はいよいよ、実際の領地か、あるいは王宮の下部組織か。
「最終実習の舞台は、王都の『救恤局』および、それに併設された再就業支援施設とする」
救恤局。
その名を聞いて、生徒たちの間にざわめきが広がった。
それは、災害や病気、あるいは能力不足によって職を失い、生活の基盤を完全に失った者たちを支援するための、王都で最も泥臭い役所だった。
「諸君には一人ずつ、実在の支援対象者のケースが割り当てられる。相手の情報整理、礼法、聞き取り、そして適切な支援や再就業の手配を、総合的に評価する」
私は、自分の鞄の中にある失敗記録帳にそっと手を触れた。
これまでの学院の課題は、どんなに厳しくても「失敗すれば点数が下がる」という安全なシミュレーションに過ぎなかった。
だが、次に向き合うのは、人生のレールから外れ、どうやって立ち直ればいいのか分からずに苦しんでいる「本物の失敗者」たちだ。
私が自分自身を立て直すためにやってきたことが、外の世界の現実にどこまで通用するのか。
本当の試練が、幕を開けようとしていた。




