第19話 勝ったのは復旧だけ
学院の大演習場には、生徒たちが数名ずつ分かれたグループのテーブルが整然と並んでいた。
各テーブルの上には、木製の小さな駒と、仮想の領地データが記された羊皮紙が置かれている。人口、税収、備蓄米、労働力。
「これより、領地経営模擬戦を開始する」
教壇に立つ教員の声が響く。
「期間は仮想の三年。季節ごとに巡ってくるターン制で、各班は限られた資源をどこに投資するか決定しなさい。最終的な領地の総合的な成長度と安定度で順位を決める」
開始の鐘が鳴ると同時に、フェリシア様が率いる班のテーブルからは、無駄のない指示と活発な議論の声が聞こえ始めた。
「最初の年は農業基盤の強化に予算の七割を割きます。残りで水路の整備を。二年目以降の税収増加を確定させてから、商業への投資へ回しますわ」
フェリシア様の判断は恐ろしく速く、そして的確だった。
初期条件から最も効率の良い成長曲線を描く投資先を瞬時に見抜き、迷いなく資源を配分していく。彼女は自分が天才であることを驕らず、リスク計算も含めた堅実な正解を最短距離で叩き出していた。
一方、私が責任者を務める班のテーブルは、重苦しい空気に包まれていた。
「ええと……まずは、備蓄米を少し増やして……残りを、どこへ……」
私が初期データと睨み合って判断を迷っている間に、フェリシア班はすでに一年目の秋のターンを終え、順調に税収を伸ばしていた。
私の班もなんとか農業への投資を決めたものの、初動の遅れと投資先の分散が響き、平常時の成長度ではあっという間にフェリシア班に大差をつけられてしまった。
「……やはり、フェリシア様の班には敵いませんわね」
同じ班の令嬢が、諦め半分といった声で呟く。
私も唇を噛んだ。分かっていたことだ。情報処理速度と、正解を導き出す計算能力の高さにおいて、私がフェリシア様に真っ向から勝てる道理はない。
二年目の冬のターンに入った直後だった。
教員が突然、すべての班のテーブルに赤い札を配り歩いた。
「予定外の事態が発生した。全領地において、記録的な大雪による主要街道の橋の崩落、およびそれに伴う物流の完全停止だ。各班、被害状況を算出し、直ちに対応策を提出しなさい」
演習場に悲鳴のようなざわめきが広がった。
順調に税収を伸ばしていた班ほど、流通への依存度が高く、橋の崩落による損失ダメージは大きい。フェリシア班のテーブルでも、一瞬だけ動きが止まるのが見えた。
私の手元にある羊皮紙の数字も、真っ赤な赤字へと転落していく。
しかし、私の心臓はそれほど大きく跳ねなかった。
『予定外の事故が必ず追加される』
ユリウス教官から事前に告げられ、失敗記録帳を使って何度も「想定」してきた事態だ。
私は深呼吸を一つし、頭の中の分類の棚を開けた。
橋の崩落。物流の停止。これは『物資・情報の断絶』と『突発的なインフラ損失』の複合型だ。
「皆、聞いてください」
私は震えのない声で、班の令嬢たちに指示を出した。
「橋の修復には時間と多額の予算がかかります。今は直そうとしないでください。物流が止まったことで、最も致命的なのは何ですか?」
「そ、それは……冬を越すための、燃料と食料の不足ですわ!」
「そうです。だから、残っている予算のすべてを橋の修復ではなく、領地内の備蓄物資の買い上げと、各村への再配分に全振りします」
「でも、それでは橋が直るまで商業による税収はゼロになりますわよ!?」
「税収は後からでも戻せます。でも、冬の間に領民が凍えて労働力が失われれば、この領地は三年目で完全に立ち行かなくなります」
私は手元の羊皮紙に、被害を最小限に食い止めるための『守るべき一線』だけを書き込んだ。
経済的な成長を捨て、ただ生き残るためだけの現実的な防衛策。
他の班が「どうすれば早く橋を直して元の成長軌道に戻せるか」と計算式をこね回し、予算のやりくりでパニックに陥っている間、私たちの班だけは、一切の迷いなく「被害の止血」だけに専念していた。
三時間が経過し、仮想の三年目が終了する鐘が鳴った。
教壇に貼り出された各班の最終成績表。
総合順位のトップに輝いたのは、やはりフェリシア様の班だった。
彼女たちは橋の崩落という大事故に見舞われながらも、圧倒的な計算速度で代替の輸送ルートを構築し、被害を最小限に抑えた上で再び経済成長を軌道に乗せていた。その手腕は完璧というほかなかった。
私の班は、総合順位では真ん中より少し上程度。大敗ではないが、決して勝利と呼べる順位ではない。
「……結局、総合では全く歯が立ちませんでしたわね」
私は小さく呟き、悔しさにドレスの裾を強く握った。分かっていたとはいえ、目の前で圧倒的な差を見せつけられるのはやはり堪える。
「総合順位の発表は以上です。続いて、各評価項目の詳細を発表します」
教員が別の模造紙を黒板に張り出した。
「今回の模擬戦で、最も特筆すべき点がありました。『危機発生時の初動速度』および『被害発生後の損失抑制率』……つまり、事故後の復旧と立て直しに関する項目です。この項目においてのみ、ハルフォード嬢の班が、他のすべての班を大きく引き離して単独首位でした」
演習場が、しんと静まり返った。
私は顔を上げ、黒板の数字を見つめた。
総合順位ではフェリシア様にボロ負けだ。経済の成長率も、最終的な税収も、足元にも及ばない。
けれど、『崩れた状況から被害を止める速度』だけは、私が一番だった。
私が泥水の中で失敗帳をめくり続け、起きる前から不格好な対策を練り続けてきた結果。それは、天才である彼女にも負けない、私だけの明確な強みとして数字に表れていた。
教員の説明が終わると、私の席にフェリシア様が歩み寄ってきた。
彼女は私の手元の羊皮紙――成長を捨てて防衛に全振りした指示書を一瞥すると、真っ直ぐに私の目を見た。
「素晴らしい判断だったわ、ハルフォードさん」
「私たちは橋をどう直すか、という『元の計画への復帰』に数ターン思考を奪われたわ。でもあなたは、即座に計画を捨てて領民の生存に舵を切った。あの初動の速さと見切りの良さは、私にはできなかったことよ」
「フェリシア様……」
「総合で勝つために、全部の能力で一番になる必要はないのね」
フェリシア様はふっと口角を上げ、同じ実務を志す者としての敬意を込めて、小さく頭を下げた。
「危機対応や立て直しにおいて、あなたのその力は間違いなく現場で頼りになるわ。今後の共同実習でも、よろしくお願いするわね」
私は胸の奥が熱くなるのを感じながら、深く頷き返した。
フェリシア様の下位互換になる必要はない。
私は私の戦い方で、この実務の世界を生き抜いていくことができる。その確かな手応えが、私の中で確固たる芯になり始めていた。
模擬戦の成績記録は、学院の教師陣だけでなく、外部から視察に訪れていた実務官たちにも共有されていた。
大講堂の隅、見学者用の長机に置かれた束の中から、一枚の成績表を引き抜く手があった。
財政院の分析官、アルベルト・グレイヴ。
彼は私の班の『損失抑制率・首位』という数字と、そのために私が切った細かな指示の履歴を、冷徹な目でじっと見つめていた。
「……驚いたな」
彼は誰に言うともなく、小さく呟いた。
「あの時は『時間をかける価値がない』と判断したが……損失の極小化と復旧という限定的な局面においてのみ、これほど使える人材に育つとは」
アルベルトは眉一つ動かさず、傍らの記録係へ損失抑制率の再計算を命じた。彼の目は私ではなく、成績表の数字だけを追っていた。




