第18話 起きる前に失敗しておく
個別訓練室の長机に広げた『失敗記録帳』のページは、とうに半分以上が黒々としたインクで埋め尽くされていた。
入学当初の「何もできない」という自己否定から始まり、診断試験での三十七個のミス、公開晩餐実習での視線の泳ぎ、そして先日の大邸宅での予算管理における判断の遅れ。
私はペンを持ったまま、過去のページと直近のページを何度も行ったり来たりしていた。
「……似ている」
思わず、ぽつりと声が漏れた。
例えば、先日の実習で「手配していた仔牛肉が届かない」と報告された時の失敗。そして、入学直後の模擬受付で「予定外の来賓が急に現れた」時の失敗。
起きている事象も、求められる実務の科目も全く違う。けれど、その瞬間に私が陥ったパニックの形と、「どうにかして元の計画に戻さなければ」と足掻いて思考が停止する過程は、不気味なほどそっくりだった。
「遅まきながら気づいたか」
窓際で書類を読んでいたユリウス教官が、視線を上げずに言った。
「君はこれまで、自分の失敗を一つずつ『直すべき項目』として抽出してきた。だが、百の事象を百の個別の失敗として丸暗記したところで、実戦の矢継ぎ早なトラブルの中では検索が追いつかない。頭の中の引き出しをひっくり返している間に、時間は過ぎる」
教官は私の向かいに座り、帳面を指先で軽く叩いた。
「過去の死骸をただ並べる段階は終わった。次はその共通項を括り出し、パターンの『型』を作れ」
パターンの、型。
私は白紙のページを開き、過去の失敗たちを睨みつけた。事象の表面的な違いを取り払い、私がどういう状況でつまずくのか、その骨組みだけを抽出していく。
ペン先が、少しずつ確信を持って動き始めた。
一つ目は、『人員・時間の急な喪失』。
二つ目は、『予算・物資の予定外の不足』。
三つ目は、『相手の意図が不明な盤外からの追及』。
大きく分ければ、私が現場で立ちすくむ原因は、概ねこの数種類の型に分類できた。
「ただ分けただけでは意味がない」と教官が言う。「それぞれの型に対して、最初に確認すべきことと、絶対に守るべき代替手段を簡潔に紐づけろ。完璧な正解を探すな。致命傷を防ぐための『初動』だけを決めろ」
私は頷き、型の横に書き込んでいった。
人員が減ったなら、作業の速度を上げるのではなく、一番優先度の低い『見栄え』の仕事を捨てる。
物資が不足したなら、元の形に戻そうとせず、その場にあるもので『安全と礼法』だけを確保する。
すべてのトラブルへの完璧な対応策を暗記するのではない。似た事故が起きた時、まずどこへ逃げ込み、何を守るかという『初動のルール』を定めたのだ。
数日後の実務演習は、教室での口頭対応ドリルだった。
教員が次々と想定外の条件を提示し、指名された生徒が即座に対応策を答えるという、瞬発力が問われる課題だ。
「ハルフォード嬢」
教員が鋭い声で私を指名した。
「あなたは慈善バザーの運営責任者です。開始一時間前に、手配していた設営用の天幕が半分しか届かないことが判明しました。どう対応しますか」
天幕が届かない。
一瞬、胸がどきりと跳ねる。しかし、私の頭の中にはすでに分類された型があった。これは『予算・物資の予定外の不足』だ。
ならば初動は決まっている。元の形(全員に天幕を行き渡らせる)に固執せず、一番重要な目的だけを守る。
「……直射日光や雨を避けるべき食料品と、体調不良者用の救護ブースにのみ天幕を優先配置します。日用品や工芸品のブースは天幕なしで展開し、必要であれば近隣の建物の軒下を借用する交渉に人を走らせます」
「よろしい」
教員が手元の名簿にチェックを入れる。
少し離れた席で、エルザ様が微かに目を見張るのが見えた。私が口頭の即興対応で、一度も視線を泳がせずに五秒以内で答えを返したからだ。
フェリシア様なら、聞いた瞬間に全体の最適解を組み立てるだろう。私は自室で失敗記録帳をめくりながら、「天幕が足りなかったら」「給仕が倒れたら」と、起こり得る事故を前夜のうちに書き出しておいたのだ。
すでに一度自分の頭の中で失敗し、対策の型に当てはめておいた状況だから、現場で迷わずに済んだだけ。それは「速く考えている」のではなく、「考えたことのある状況を増やしている」に過ぎなかった。
泥臭くて、手間の掛かる方法だ。
それでも、ただ怯えていた「想定外」という化け物が、私の中で対処可能な「既知の型」へと変換されていく実感があった。
「では、追加条件です」
教員が容赦なく言葉を続ける。
「天幕の配置を終えた直後、突発的な豪雨が発生しました。同時に、待たされていた来場者の一部が苛立ち、入り口で警備員と小競り合いを始めました」
不意に投げ込まれた、複合的な危機。
私は息を呑んだ。
豪雨による物資の危機。同時に発生した人員配置の危機。さらには来場者の悪意。
頭の中で、失敗記録帳の分類を急いで探す。これはどの型だ? 一番の優先はどれだ? 雨を防ぐことか、暴動を止めることか、それとも――。
「……あ、ええと……まずは、警備を入り口に……いえ、食料品を屋内に……」
型に当てはめようとすればするほど、どれもが中途半端になり、思考が絡まり合って止まる。
「時間切れです。判断の遅れは、暴動の拡大と物資の喪失を招きますよ」
教員の冷ややかな声に、私は肩を落として席に座った。
「……最後は完全にフリーズしていましたわね。やはり、少し条件が複雑になればメッキが剥がれますわ」
実習後、席を立ちながらエルザ様が冷ややかに呟いた。
「でも、最初の対応速度は驚異的だったわ」
その言葉に答えたのは、フェリシア様だった。彼女は私の手元にある古びた帳面を、興味深そうに見つめていた。
「ハルフォードさんは、その場で考えているのではないみたい。あらかじめ分類しておいた対応策の引き出しから、一番近いものを引っ張り出しているのよ。……不測の事態そのものを、事前に『予測可能な範囲』まで整理して持ち込んでいる。地味だけれど、とても堅実で恐ろしい実務のアプローチだわ」
エルザ様はフェリシア様の言葉に少しだけ眉をひそめたが、私を嘲笑うことはせず、ただ強い対抗心だけをその蒼い瞳に滲ませて立ち去っていった。
放課後。
個別訓練室で、ユリウス教官は私の報告を聞いて短く息を吐いた。
「分類にこだわりすぎて判断が遅れたな。目の前の現実より、自分の頭の中のノートをめくることに意識を奪われている。典型的な分類過多の弊害だ」
「はい……。複数の型が同時に起きると、どれを優先すればいいのか分からなくなってしまって」
「現実の事故は、常に君の作った綺麗な箱の中に収まるとは限らない。型はあくまで迷いを減らすための地図だ。地図と目の前の地形が違うなら、迷わず地形を優先しろ。型に当てはめること自体を目的化するな」
教官の言葉は厳しいが、私の見つけた方法そのものを否定はしなかった。限界はある。それでも、あの地味な失敗帳が、私だけの「現場を生き抜くための経験の地図」になり始めているのは間違いなかった。
「君のその地図がどれだけ実戦で通用するか、すぐに試す機会が来るぞ」
教官は教卓から一枚の書類を取り出し、私に告げた。
「次回の演習は『領地経営模擬戦』だ。生徒同士で班を作り、仮想の領地を与えられて数年間の成長度を競い合う」
私は背筋を正した。これまでのような一日の行事ではなく、中長期的な経営判断が問われる課題。
「当然、フェリシア・オルブライトやエルザ・ローゼンベルクたちと同じ舞台で競うことになる。そして……」
教官の目が、鋭く細められた。
「この模擬戦では、開始後に事前の計画にはない『計画外の事故』が必ず投入される。起きる前に失敗しておく君の方法が、どこまで通用するか見せてもらおう」




