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婚約破棄された落ちこぼれ令嬢は、鬼教官と失敗記録帳で百二十七位から人生を立て直す  作者: 他力本願寺


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第2話 前代未聞の推薦状

朝の光が差し込む自室のベッドで、私は銀盆の上に置かれた分厚い封筒を見つめていた。


 王立アウレリア淑女学院の重厚な封蝋が押されたそれには、間違いなく私の名前が記されている。ペーパーナイフで丁寧に封を切り、中から上質な羊皮紙を取り出した。


 そこには、学院の入学審査への参加を許可する旨の定型文に続き、流麗だがどこか角張った硬質な筆跡で署名が添えられていた。


『特別教導官 ユリウス・ヴァイス』


 その文字を見た瞬間、私の頭には疑問符しか浮かばなかった。


 ユリウス・ヴァイス。その名前に聞き覚えはあるが、私のような辺境の地方伯爵令嬢が直接関わりを持てるような人物ではないはずだ。


「ユリウス・ヴァイス……あの、ヴァイス教官が直々に個人推薦を出したというのか?」


 朝食後、父の書斎へ手紙を持ち込むと、普段は温厚な父が目を見開き、信じられないものを見るように手元の羊皮紙と私の顔を何度も往復させた。傍らに立つ母も、ショールを握りしめたまま息を呑んでいる。


「あなた、それは本当ですか? だってあの方は、ここ数年ただの一度も推薦状など……」


「ああ。元外交実務官にして、王国一厳しいと噂される鬼教官だ。この五年間、彼が個人推薦を出した生徒はただの一人もいないはず。それがなぜ、リディアに?」


 両親の困惑はもっともだった。私自身が一番混乱しているのだから。


 王立アウレリア淑女学院。それは、花嫁修業のための優雅な礼儀作法を学ぶ場所ではない。基礎的な貴族教育を終えた女性たちが、将来、家や領地の運営、財団の管理、救恤きゅうじゅつ活動、さらには外交補助といった「実務」を担うために通う、一年制の上級実務課程である。


 全国から集められた百二十八名の定員は、毎月の総合実務順位によって厳しく評価される。まさに実務教育の最高峰機関だ。


「だが、リディア」


 父は羊皮紙をデスクに置き、真剣な眼差しで私を見た。


「これは決して『合格保証』ではない。推薦状があっても、入学後の診断試験で基準に満たなければ容赦なく落とされる。それに、学院には厳格な利益相反規則がある。推薦者は、自分が推薦した生徒の採点や昇級、卒業判定には一切関与できない決まりだ。つまり、入学できたとしても、特別扱いや成績の加点などは一切ないということだ」


「……はい」


「お前は昨夜、アルベルト殿から婚約解消を突きつけられたばかりだ。その理由は、お前の実務能力の不足だと聞いている」


 父の言葉は静かで穏やかだったが、私の胸を鋭く抉った。


 婚約期間中、アルベルトが忙しい合間を縫って私の不手際を何度も補助し、修正してくれたことも事実だった。だからこそ、彼の求める水準に届かなかった自分を責める気持ちばかりが膨らんだ。


「もしこの推薦を受けて学院に入り、そこでも実務についていけず落第でもすれば、ハルフォード家の評判はさらに傷つく。何より、お前自身が再び残酷な噂の的になるんだ。学費も決して安くはない」


「お父様の言う通りよ、リディア」


 母が心配そうに私の肩に手を置いた。


「今は傷を癒やす時です。領地に下がって、ほとぼりが冷めるまで休むのが一番安全だわ。誰もあなたを責めたりしない。無理をして、また傷つく必要なんてないのよ」


 両親の言葉には、私を厄介払いしようとする意図は微塵もなかった。ただ純粋に、これ以上私が傷つくのを恐れ、現実的な将来を案じてくれている。


 領地に帰って休む。それは昨夜、暗い庭園で出会ったあの見知らぬ男も「正当な自己防衛だ」と肯定してくれた選択肢だ。


 手元にある推薦状の文面には、私の能力を過大評価するような言葉は書かれていない。私自身、推薦されたからといって自分に隠された才能があるなどとは欠片も思っていなかった。昨夜、かろうじて絞り出した一文も、ただの偶然の強がりだったのかもしれない。


 学院に行っても、きっと同じように失敗を重ねるだろう。周りの優秀な令嬢たちから呆れられ、恥を重ね、最後にはやっぱり駄目だったと見切りをつけられる。


 怖い。また人前で、自分の無力さを突きつけられるのが、たまらなく怖い。


 けれど――。


『私の人生を、あなたに決められたままにはしません』


 昨夜の私の声が、耳の奥で蘇る。


 もし今、私がここで逃げ出して領地へ引っ込めば、アルベルトが下した「時間をかける価値がない」という評価が、私の人生の最終的な結論として確定してしまう。


 私は一生、他人に切り捨てられた無能な令嬢として、誰かの庇護の下で隠れ続けることになる。


 それは、嫌だった。


 才能がなくてもいい。失敗ばかりでもいい。けれど、私が本当に何もできない人間なのかどうかを、他人の物差しだけで決められたくなかった。


「お父様、お母様」


 私は顔を上げ、両親を真っ直ぐに見つめた。声はまだ少し震えていた。それでも、言葉を紡いだ。


「私を、アウレリア学院へ行かせてください」


「リディア……しかし」


「私に上級実務の能力が足りないことは、私が一番よく分かっています。きっと、学院でもたくさん恥をかくと思います。また失敗して、泣くことになるかもしれません」


 膝の上で、ドレスの布地をぎゅっと握りしめた。


「でも、何もしないまま、他人が決めた評価を自分の結論にしたくはないんです。……自分の足で立って、もう一度だけ、試してみたい。だから、お願いします」


 それは、生まれてからずっと、親や婚約者の言うことに受動的に従って生きてきた私が、自分の人生を左右する道を初めて自分の意志で選んだ、大きな決断だった。


 しばしの沈黙が下りた。


 父は私の顔をじっと見つめ返し、やがて、深く、長い息を吐いた。


「……分かった。そこまで言うなら、自分の目で確かめてきなさい」


「あなた!」


「この子はもう、自分で選んだんだ。親が先回りして道を塞ぐべきではないだろう」


 父の言葉に、母も最後には力なく微笑んで頷いてくれた。


 数週間後。


 春の陽光が降り注ぐ中、私はアウレリア学院の壮麗な正門をくぐっていた。


 石造りの重厚な学舎と、手入れの行き届いた広大な中庭。周囲には、各領地から集まった百二十八名の令嬢たちが、それぞれの制服に身を包んで集まっている。


 だが、新入生たちの間には、すでに微かな熱を帯びた噂が渦巻いていた。


「ねえ、聞いた? 今年はユリウス・ヴァイス教官の『個人推薦』がいるらしいわよ」


「嘘でしょう? あの方、この五年間誰も推薦しなかったのに」


「一体どんな怪物級の才女なのかしら。よほどの神童に違いないわ」


 ひそひそと交わされる声が耳に届くたび、私は胃が痛くなる思いだった。


(ごめんなさい、神童でもなんでもない、ただの落第令嬢です……!)


 周囲からの過剰な期待が、見えない重圧となってのしかかってくる。私が「婚約破棄されたばかりのハルフォード家の娘」だと知れ渡れば、どうなることか。


 いたたまれず、少しでも人目を避けようと中庭の隅へ移動した時だった。


 回廊の奥から、数人の教官たちが歩いてくるのが見えた。


 その中心にいる人物を見て、私の心臓が大きく跳ねた。


 長身で、整っているがひどく冷たい印象を与える顔立ち。周囲の喧騒から切り離されたような、静かで鋭い気配。間違いない。昨夜、王宮の庭園で私に選択肢を与え、慰めもせずにただ言葉を取り戻させてくれた、あの見知らぬ男だ。


「あっ、あの方が……」


 隣にいた見知らぬ令嬢が、頬を染めて小さく歓声を上げた。


「あの方が、ユリウス・ヴァイス特別教導官よ。やっぱり素敵……」


 その呟きを聞いた瞬間、私の頭の中で、すべてのピースが一つに繋がった。


 あの不愛想で、厳しくて、私の尊厳だけを守ってくれた庭園の男。


 彼が、王国一の鬼教官と呼ばれる、ユリウス・ヴァイスその人だったのだ。

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