第1話 婚約破棄された日
シャンデリアの眩い光が乱反射し、優雅な管弦楽が流れる王宮の夜会。その華やかな喧騒の中心で、私の時間は唐突に止められた。
「リディア。君との婚約は、本日をもって解消とする」
私の目の前に立つアルベルト・グレイヴは、普段と何一つ変わらない、静かで平坦な声でそう告げた。周囲の貴族たちのざわめきが一瞬にして波を打ち、好奇と憐憫の視線が一斉に私へ突き刺さる。
彼の手には、すでに数枚の書類が握られていた。
「我がグレイヴ家からの正式な通知に必要な書類と、ハルフォード家への規定の補償案だ。すでに手続きの準備は整っている」
それは、感情的な思いつきや諍いの結果ではなかった。緻密に計算され、準備され尽くした、一つの「処理」の完了報告だった。
「君は家政や領地経営、外交補助における上級実務の習得が著しく遅れている。婚約期間中、私が何度君の不手際を補助し、計画を手直ししても、君の処理速度は我が家が求める基準に達しなかった。これ以上の時間を君に割くことは、互いの将来にとって有益ではないと判断した」
淡々と並べられる事実は、どれも真実だった。
感情のままに私を突き放したのなら、まだ反発もできただろう。けれど、彼は婚約者として、私の不手際を何度もカバーし、足りない資料を揃え、失敗を修正してくれていた。有能な若手分析官である彼にとって、私の歩みはあまりにも遅く、非効率だったのだ。私自身がそれを一番よく分かっていた。
だから、反論の言葉が一つも浮かばなかった。喉の奥が干からびたように張り付き、声が出ない。
私が何も言えないのを「同意」と受け取ったのか、アルベルトはわずかに顎を引き、踵を返した。彼の背中が遠ざかっていく。近くの令嬢たちが、彼にはすでに次代を担う才女、クラリッサ様との新たな縁談が持ち上がっているらしいと囁き合っているのが聞こえた。
私は、彼にとって時間をかける価値のない負債として切り捨てられたのだ。
そう思った途端、絶望が足元から冷たく這い上がってくる。能力が足りないのは仕方がない。彼が私を見限るのも当然だ。けれど、なぜ。
なぜ、この公衆の面前で。私自身には一言の事前相談もなく、私の頭越しに、私の人生の清算を完了させたのか。
ドレスの裾を握りしめる手が小刻みに震えていた。これ以上、この場所に立っていることはできなかった。私は俯いたまま、誰とも目を合わせないように夜会の広間から逃げ出した。
冷たい夜風を求めて、人気のない王宮の奥の庭園へと足を踏み入れる。
暗がりの中、手入れされた植え込みの陰にある石造りのベンチに崩れ落ちた。涙は出なかった。代わりに、ひどい吐き気と虚無感が胃の腑をかき回していた。何も言い返せなかった自分への情けなさと、自分の未来をまるで不要な書類のように他人に処理されたという事実が、重くのしかかっていた。
「――過呼吸になるぞ」
不意に、暗がりから声が落ちてきた。
顔を上げると、少し離れた木の幹に背を預けている長身の男がいた。仕立てのいい夜会服を着ているが、どこか周囲の空気から切り離されたような静けさを持つ、見知らぬ大人の男性だった。
私は息を呑み、慌てて立ち上がろうとした。もつれた足がよろけ、ドレスの裾を踏んでしまう。
「無理に立つな」
彼は私に近づくでもなく、ただ平坦な声で言った。
「泣きに来たなら邪魔をした。別の場所へ移ろう。だが、もし落ち着きたいなら、少し息を吐け。夜風は頭を冷やす」
慰めの美辞麗句も、好奇心に満ちた詮索もない。ただの物理的な事実としての対処法だった。その温度のない言葉に、私は不思議と呼吸の仕方を取り戻した。
「……申し訳ありません。お見苦しいところを」
絞り出した私の声は、ひどく掠れていた。
「構わない」
男は短い沈黙を挟んだ。彼の視線は私の華美なドレスや、整えられた髪ではなく、ただ私という人間の状態を観察しているように見えた。
「君が何から逃げてきたのか、詮索する気はない。ただ、ひどく負けた顔をしているな」
その言葉に、胸の奥に澱んでいたものが不意に溢れ出しそうになった。
「負けた……ええ、負けました。私は、何も……何も言えなかったんです」
「何を言いたかったんだ?」
「分かりません。でも……私、あんな風に、皆様の前で……」
言葉が続かない。感情だけが渦巻いて、思考が追いつかない。
男はゆっくりと姿勢を正し、私の方へ向き直った。
「なら、二つに一つだ」
彼は静かに、だが明確な意志を持った声で言った。
「今日このまま馬車を呼んで帰り、温かいお茶を飲んで、すべてを忘れて休む。それは決して逃げではない。傷ついた人間が身を守るための、正当で正しい自己防衛だ」
彼は私に、休むという権利を保証してくれた。その言葉だけでも、こわばっていた肩の力が少し抜けた。
「だが、もう一つ。もし君が、さっき言えなかった言葉を一つだけでも取り戻したいと望むなら、ここから数分だけ、私が練習の相手をする。相手の意図を考え、自分が何を返すか。その言葉を探す訓練だ。……どうするかは、君自身が選べ」
選べ、と言われた。
私の人生は、つい先ほど他人の手によって一方的に決められ、処理されたばかりだった。だからこそ、この小さな選択肢が、目の前に差し出された一本の細い糸のように見えた。
私はドレスの裾から手を放し、男の顔を真っ直ぐに見返した。
「……取り戻したいです」
「いいだろう」
男は少しだけ頷いた。
「まず事実を整理する。君は何が一番嫌だった? 婚約が終わったことか? それとも、彼を失ったことか?」
矢継ぎ早の質問ではない。一つ一つ、区切りながら投げかけられる問い。
「……彼が私を必要としなかったことは、仕方ありません。私が至らなかったからです。それは、納得できます」
「ならば、何に傷ついた?」
「それは……」
私は視線を彷徨わせた。言葉を探す。頭の中が真っ白になる。焦りがせり上がってくる。
「ゆっくりでいい。誰も君を評価していないし、急かさない」
男の声は淡々としていたが、その沈黙は私を追い詰めるものではなく、私が言葉を見つけるための安全な空間を守ってくれていた。
私は自分の内側を覗き込んだ。あの瞬間の、氷水を浴びせられたような感覚。
「悔しかったのは……彼が……」
「彼が、なんだ?」
「彼が、私の……これからのことを、彼一人で決めて……皆様の前で、一方的に宣告したことです」
「なぜそれが悔しい?」
「だって、それは……私のことなのに。私の人生なのに。私には、何も選ばせてくれなかった。まるで私という人間が、そこにいないかのように扱われたことが……悔しかったんです」
男はわずかに頷いた。
「そうだ。ならば、その事実に対して、君はどう在りたい? 彼に何を伝えるべきだった?」
どう在りたいか。
私は言葉に詰まった。何度も口を開きかけては、ふさわしい言葉が見つからずに閉じた。失敗を恐れる私が、正解を探そうとして止まってしまう。
だが、彼は答えを代わりに言ってはくれなかった。私が自分で言葉にするまで、ただ静かに待ち続けていた。
夜風が木々を揺らす音が、やけに大きく聞こえた。
私は両手を強く握りしめ、自分の中に残っている、本当に小さな、けれど確かな熱を言葉にした。
「私は……」
声が震えた。それでも、続けた。
「私は、能力が足りなかったかもしれません。でも……私の人生を、あなたに決められたままにはしません。……次からは、私が、自分で選びます」
それは、鮮やかな論破でも、相手をやり込める強い啖呵でもなかった。ただの、惨めで無力な私の、小さな意思表示にすぎない。
それでも、言葉に出した瞬間、足元にようやく自分の居場所ができたような気がした。
男は小さく息を吐いた。
「十分だ」
厳しい顔つきの中に、ほんのわずかだけ、安堵のようなものが混じった気がした。
「完全な反論である必要はない。だが、その一文を持っていれば、君はもう一度立てる。次からは、そう言え」
「はい……」
「今日はもう帰れ。よく休むことだ」
それだけ言うと、彼は私に背を向け、庭園の暗がりの中へ歩き出そうとした。
「あのっ」
私は思わず声をかけた。
「ありがとうございます。……お名前を、伺ってもよろしいですか?」
男は立ち止まり、肩越しに少しだけ振り返った。
「名乗るほどの者ではない。ただの通りすがりだ」
彼はそれ以上何も言わず、闇の中へと消えていった。
翌朝。
私はハルフォード家の自室のベッドで目を覚ました。
朝日が差し込む部屋はいつも通りで、私の状況が好転したわけではない。私は婚約を破棄された、実務能力に欠ける無力な令嬢のままだ。社交界では、私が一方的に捨てられたという噂がすでに広まっているだろう。
だが、あの庭園で声に出した小さな言葉だけが、胸の奥で静かに残っていた。
コンコン、と控えめなノックの音がして、メイドが部屋に入ってきた。
「お嬢様、朝のお手紙が届いております」
銀盆の上に載せられていたのは、見慣れない分厚い封筒だった。
宛名には私の名前が記されている。そして、裏に返すと、そこには王立アウレリア淑女学院の重厚な封蝋が押されていた。




