第16話 七十位
学院の一年間折り返し地点となる、中間総合試験。
大演習場で行われた実技試験は、これまでの単一課題とは異なり、社交会話、筆記による帳簿処理、そして不測の事態への危機対応が連続して要求される過酷なものだった。
私のブースへ運ばれてきたのは、複雑な領地会計の試算表と、不機嫌な面持ちで抗議に訪れた隣領の使節役の教員だった。
「ハルフォード嬢。当領との境界線における木災賠償金の支払いが、そちらの帳簿では二割削られている。どういう計算だ」
使節役の教員が、バンと机を叩いて詰め寄ってくる。
一瞬、息が詰まった。過去の私なら、相手の強い威圧感に気押され、頭が真っ白になって手元の資料に逃げ込んでいただろう。
だが、今の私の手元には、個別訓練室で積み重ねてきた『失敗記録帳』の記憶があった。
落ち着け。まずは視線を逃さず、相手の顔を見る。
呼吸を整え、焦って当てずっぽうな返答を口にする前に、手元の計算表と照合する。
「使節様。お言葉ですが、削減された二割は賠償金の不払いではなく、先月の合同防林作業において当領が立て替えた資材費との相殺分です。こちらの別紙三項をご確認いただけますか」
声はまだ硬く、資料を探す手も完璧な滑らかさにはほど遠かった。処理の速度自体は、上位の生徒たちに比べればずっと遅い。
それでも、私は途中でパニックを起こして投げ出すことなく、一つひとつのミスをその場で修正しながら、最後まで課題を完遂させた。
数日後。
中間試験の総合結果が、大広間の巨大な掲示板に貼り出された。
人垣の隙間から、私は祈るような気持ちで自分の名前を探した。
百二十七位から始まり、百十九位、百四位と少しずつ進んできた私の名前。
『七十位 リディア・ハルフォード』
その数字を目にした瞬間、胸の奥から温かい息が溢れ出た。
七十位。百二十八人中、ちょうど真ん中あたり。
決して「上位の優秀な令嬢」と胸を張れる位置ではない。下から数えた方が早かったあの頃から見れば、半分近くまで上り詰めた大きな成果だった。
けれど、私は自分が急に才能に覚醒したわけではないことを、誰よりもよく知っていた。七十位になれたのは、奇跡が起きたからでも、隠された能力が開花したからでもない。ただ三十七個あった自分の失敗を分解し、一つずつ愚直に消してきた積み重ねの成果に過ぎないのだ。
「……フン、随分と上がりましたわね」
不意に横から、少し硬い声がかけられた。
振り返ると、そこにエルザ様が立っていた。
前回の重要実習で四十一位まで暴落した彼女の順位表に目をやると、そこには『三十八位』という数字が刻まれていた。
彼女は自身の大失敗から逃げず、自分なりに失敗の原因を分解し、不慣れな立て直し手順を猛練習して、一回の中間試験で速やかに三十位台へと舞い戻ってきたのだ。
私より上の順位を、彼女はしっかりと維持していた。
「エルザ様……三十八位まで戻されたのですね」
「当たり前ですわ。あんな一回の不手際で、私がそのまま落ちぶれるとでも思いましたの?」
エルザ様は誇らしげに顎を上げた。以前のような露骨な見下しや嘲笑の色は姿を消していたが、強い対抗心とプライドは少しも衰えていなかった。
「前回の実習であなたに助けられたことは、事実として感謝していますわ。ですが……だからといって、私があなたに順位を譲る理由にはなりません。私はすぐに元の十七位へ戻ります。あなたに追いつかれるつもりもありませんわ」
「はい。私も、追いつくのを諦めるつもりはありません」
私はまっすぐに彼女の目を見返した。
相手が落ちたから自分が上がったのではない。彼女もまた失敗から立ち上がり、前へ進んでいる。その存在が、私の中に残る甘えを綺麗に削ぎ落としてくれた。
ふと視線を最上部に巡らせると、そこには揺るぎない文字で『三位 フェリシア・オルブライト』と書かれていた。
フェリシア様は相変わらずトップ層に君臨し続けている。彼女もまた、自分の課題を見つけては図書室で遅くまで勉強を重ねていた。天才が正しい努力を続けている以上、私がちょっとやそっと失敗を減らしたくらいでは、その背中に触れることすらできない。
七十位。それは私にとって誇らしい一歩であると同時に、上にはまだまだ果てしない壁が聳え立っていることを教える数字でもあった。
放課後。個別訓練室で、ユリウス教官が私の評価表を検分していた。
「七十位か。入学時の最下位圏からは、数字の上では順調に持ち直している」
教官の声は平坦だった。七十位という上昇幅に驚くことも、大げさに褒めちぎることもない。
「ですが、まだ半分です。上位の方々との差は開いたままです」
「当然だ。君の処理速度そのものが劇的に速くなったわけではないからな。今回の点数が上がったのは、不測の事態で連鎖崩壊を起こす確率が減り、最低限の減点で踏みとどまれるようになったからだ」
教官は私の評価表の一箇所を指で叩いた。
「課題は明確だ。単一の失敗を減らす段階は終わった。これからは、複数の実務項目を同時に、かつ予算や人員の制限下で動かす『応用力』が問われる」
教官は手元の新しい授業計画書を私に見せた。
「来週は、先日ローゼンベルク嬢の班で補助役として経験した晩餐会実習を、条件を変えて再実施する。今度は君たち自身の班が、予算と人員を最初から組み直し、最後まで運営する複合現場実習だ」
予算管理、食材手配、人員配置、そして現場でのトラブル対応。
一つずつしか処理できなかった私が、いよいよ本物の貴族社会を運営するための職業実務へと足を踏み入れる。
「持ち時間は限られている。覚悟して臨め」
「……はい!」
私は背筋を伸ばし、新しく準備した失敗記録帳の束を強く抱きしめた。




