第15話 失敗する側になったエルザ
王都の外れにある豪奢な貸し出し用の大邸宅。
本日の重要実習である『晩餐会の黒字運営』において、第一グループの責任者に指名されたエルザ・ローゼンベルク様の指揮は、開始当初、見事というほかなかった。
「前菜の食材費は予定より抑えられましたわね。浮いた予算をメインの肉料理の質に回します。給仕担当は、来賓のグラスが空く前に必ず動線を確認すること。装花は予算内で最も華やかに見える配置に変更なさい」
ホールの中央で次々と的確な指示を出す彼女の姿は、上位の成績を維持し続ける令嬢の誇りに満ちていた。
私たち末端の生徒も彼女の計画に従い、配膳の準備や備品の最終確認を淀みなく進めていく。教員たちも手元の採点表に、好意的な評価を書き込んでいるのが見えた。このままいけば、彼女は加重点の高いこの実習で最高評価を得て、順位をさらに上げるだろう。誰もがそう確信していた。
だが、実習の恐ろしいところは、現場の平穏がいつまでも続くとは限らないことだ。
来賓役の教員や外部の役者たちが到着し、晩餐会が本格的に幕を開けようとした直前。立て続けに三つの「予定外の条件」が現場に投入された。
「ローゼンベルク嬢。メインの肉料理ですが、手配していた業者の馬車が事故に遭い、到着が大幅に遅れるとのことです。また、給仕担当の生徒が二名、急な貧血で離脱しました」
教員からの容赦ない報告。さらに最悪なことに、入り口の受付から「事前のリストにない来賓が三名、急遽到着された」という知らせが飛び込んできた。
食材の欠落、人員の不足、来賓の増加。
エルザ様の顔から、完璧な余裕の笑みがスッと消え去った。
「そんな……あり得ませんわ。お肉が届かないなんて。席も、給仕も足りない……」
彼女の蒼い瞳がパニックに見開かれる。入学時から常に十七位前後という高順位をキープしてきた彼女にとって、自分の立てた完璧な計画に大きな穴が空くことは、「あってはならない失態」なのだ。
「と、とにかく私が厨房へ行って、代わりのメニューを考えます! あなたたちは予備の席を作って! ああっ、でも給仕が足りないなら、手の空いている者が厨房と往復して……!」
エルザ様はホールと厨房を自ら往復し、すべての問題を同時に解決しようと動いた。
しかし、それが致命的な連鎖崩壊の引き金だった。
責任者である彼女がホールから消えたことで、到着した来賓の案内が滞った。厨房では彼女の急な代替案の指示が二転三転し、料理人役の生徒たちが混乱して手が止まる。慌てて席を作ろうとした生徒たちは、動線がぶつかってグラスを落として割ってしまった。
「どうして……どうして誰も指示通りに動けないの!? これじゃ、晩餐会が台無しになってしまう!」
割れたグラスの音と来賓の苛立った声の中で、エルザ様は頭を抱え、完全に立ちすくんでいた。
遠くからその姿を見て、私の胸は痛いほどに軋んだ。
優越感など、欠片も湧かなかった。今のエルザ様がどういう状態なのか、私には痛いほどよく分かったからだ。
たった一つの失敗で、「もう全部が駄目だ」「自分は無能なんだ」と思い込み、そのパニックから逃れるために手当たり次第に目の前の問題に飛びついて、余計に事態を悪化させる。
それは、私が個別訓練室で失敗記録帳をつける前、何度も何度も陥ってきたあの暗闇そのものだった。彼女は優秀で失敗した経験が少なかったからこそ、いざ大きな壁にぶつかった時、どうやって崩れた姿勢を立て直せばいいのかを知らなかったのだ。
私は手に持っていた予備のクロスを置き、エルザ様の元へ駆け寄った。
「エルザ様」
「ハルフォードさん……! 笑いに来たの!? ええ、私の計画は滅茶苦茶よ! 全部終わってしまったわ!」
彼女は半狂乱になって私を睨みつけた。
「笑いません。終わってもいません。エルザ様、深呼吸をしてください」
「そんなことしている場合じゃ……!」
「全部を一度に直そうとしないでください!」
私の強い語気に、エルザ様は一瞬だけ口を噤んだ。
私は彼女から責任者の立場を奪うつもりはなかった。私が代わりにすべてを処理して英雄になったところで、彼女の崩れた尊厳は戻らない。私がユリウス教官から学んだのは、答えを与えることではなく、問題を直せる形に分けることだ。
「エルザ様。今、ここで起きている失敗は一つではありません。問題が絡まっているだけです」
私は彼女の目を見て、はっきりと告げた。
「『来賓の案内』『席の不足』『代替料理の決定』。今、どれならすぐに手を打てますか? 一番最悪な事態を防ぐための、一つだけを選んでください。他は私たちがやります」
私の言葉に、エルザ様はハッとして周囲を見渡した。
パニックでぼやけていた彼女の視界に、具体的な問題の形が一つずつ結像していくのが分かった。
「……お肉の代替品は、すでに手配した魚で強行します。ソースの変更は諦めて。それならすぐに出せるわ」
彼女の声から、震えが少しだけ引いた。
「分かりました。席の追加は私が指揮します。エルザ様は、入り口で待たせている来賓の案内と謝罪に集中してください。それが一番の失点になります」
「……ええ。分かったわ」
エルザ様はきつく唇を噛み締めると、乱れたドレスの裾を翻し、再び来賓の待つ入り口へと足を踏み出した。
その後、晩餐会はどうにか最後まで完遂された。
しかし、序盤の大きな混乱と、代替料理による予算の超過、そして来賓を待たせたことによる礼法の減点は覆らなかった。
数日後。
大広間に月例の総合順位が張り出された時、掲示板の前は異様なざわめきに包まれていた。
加重点の高い重要実習で大きな失点を出したエルザ様は、入学時からの指定席だった十七位前後から一気に転落し、総合順位を『四十一位』まで落としていた。
上位層からの突然の脱落。
周囲の令嬢たちが、かつて私に向けたのと同じような好奇と憐憫の目を彼女に向けている。エルザ様は掲示板の前で、血の気の引いた顔で自分の名前を見つめていた。
放課後の廊下で、私は一人で歩いてくるエルザ様と鉢合わせた。
彼女の目は赤く充血しており、誰の目にも泣いた後だと分かった。彼女は私を見るとピタリと足を止め、ぎゅっと両手を握りしめた。
彼女にとって、私のような下位の人間に無様な失敗を見られ、あまつさえ助けられたことは、順位が落ちたこと以上に耐え難い屈辱だったはずだ。私に八つ当たりをしてきてもおかしくない状態だった。
しかし、彼女は逃げなかった。
「……あの時は、助かりましたわ」
絞り出すような声だった。
「あなたが声をかけてくれなければ、私は最後まで何一つ決断できず、晩餐会そのものを崩壊させていた。……助けてもらったことは、事実です」
悔しさと屈辱に塗れながらも、彼女は事実を捻じ曲げなかった。その気高さに、私は思わず居住まいを正した。
「でも」
エルザ様は、蒼い瞳で私を真っ直ぐに射抜いた。
「これで私が折れたと思わないで。私は絶対に、元の場所へ戻ってみせますわ。次の中間試験で、必ずあなたたちとの違いを証明します」
それは強がりではなく、明確な再起の宣言だった。彼女は失敗者側に落ちても、這い上がることを諦めていない。
「……はい。私も、負けません」
私は短く答え、彼女へ道を譲った。
急に親友になどなれない。私たちは今も、順位を競い合うライバル同士だ。
次の中間試験。エルザ様がどう立て直してくるのか。そして、私はどこまで順位を上げられるのか。
私は自分の鞄の中にある失敗記録帳の重みを感じながら、彼女の遠ざかる背中を見送った。




