第83話
「あ、貴方……。テレビが……」
ノア以外の他の地区。そこで、人々はテレビから流れる音楽を気にしていた。
その内の一つ。茂山家。たかしの両親の家だ。
今日は早く出勤出来た為、茂山レイジ。彼は妻と共に家に居た。
なんとなく付けっぱなしのテレビから番組が流れていた。
彼の妻である茂山由美がその音を聞きながら夕食の準備をしていた。
しながら、旦那と話し合っている。それは息子のたかしの事。
息子たかしは今日学校をさぼったのだ。
その事について、どんな風に叱ってやろうかと話していた。
その時だ。
番組が消えた。テレビが青色画面となり番組が切り替わった。
その事に気付き、由美が作業を中止しテレビの方へ走る。
そして。
見て。
止まる。
テレビの画面に映し出されていた画面には。
日本国民尊厳維持放送。
っと書かれていた。
それは電波から流れる放送ではない。
テレビに接続されている有線のインターネット回線から流れているものだ。
「有事」の際。それが放送される事は知っている者なら知っていた。
知っていた。
由美もレイジも。
知っている側だった。
知っている側だったからこそ。
その場に立ち。何も言えなくなっていた。
その放送が流れる意味を2人は知っていた。
先ほど流れていたテレビ番組の音が消え。
そこには掛けていた時計の秒針が動く音しか聞こえない。
口を開け放心していた由美が乾いた口を潤す為に唇を閉じる。
舌を回し、乾いた口内を唾液で満たした。
その舌の動き。唾液の流れる音が聞こえてくるほど。
彼らの精神は研ぎ澄まされていた。
何も言えない。
何も言えない。
何も言えない。
何も。
何も。
でも、そうしてばかりいられなくて。
彼女は、何かを言おうと口を開く。
開くが。
何も言いだす事出来なかった。
彼女の夫であるレイジがソファーに座る。
妻の由美もそれに倣う。
レイジの瞳はただテレビの画面をまっすぐに眺めていた。
テレビから聞こえてくる放送には淡々と。
「自殺」の為の方法が流れている。
それぞれの地区には人間を即死させる威力を持つ毒ガスを供給するパイプラインが設置されている。
それは各家庭に供給され、いざという時に。
そのガスで苦しまず死ねるようになっていた。
放送はそのやり方を流している。
家の中に設置されているバルブを開き、それで優しく死ねと言っているのだった。
添え物のBGMとして「仰げば尊し」 それは学校の卒業生が恩師に感謝し学校生活を振り返る歌だ。
つまり卒業の為の歌。
卒業。卒業とは。
この世からの卒業だ。
恩師とはかつてこの世に生きていた人々。
仰ぎ。尊び。
そして彼らの元へ向かう。
そんな意味が込められている。
死ぬ為の詭弁。
終焉を迎える人類の為の歌だ。
そして世界が終わる歌。
人類と。そして地球に居る全ての生命が。
今日終わらんとしている。
それを祝う。
それを呪う。
今日、全てが終わる。
この曲が流れたという事は「敵」が再び来たという事。
その意味をこの夫婦は知っていた。
ソファーに座りながら。
何を考えているのか、ただその場で黙り座る。
「たかし……」
妻の由美は己の息子の事を思う。
共に「その時」を迎えられなかった事を。
彼女は嘆いて良いのか。それとも違う感情か。
考えていた。
ふと己の弟の事を考える。
優しく。穏やかで。自分や息子が罵倒の言葉を吐いても。
ただ黙って笑っているような弟。
小さい頃は。
好きではなかった。
才気に溢れ、容姿にも優れ。頭だって良かった……。
妹の京子と共に、この世の全てを手に入れたようなあの姉妹が嫌いだった。
妹が嫌いだった。
全てを完璧にこなし、寄る男共を翻弄し嘲るようなあの女が。
誰も見ていない癖に。
誰にでも見るような事をする。
彼女が嫌いだった。嫌いだった……。
それに似る弟も……。
しかし弟は全てを捨て。廃人へと落ちた。
そうして同じ場所に落ちてから初めて。
私達は本当の姉弟になれたような気がする。
由美はもう過去の大半を知らない。処置を受け忘れた。
しかし、全てを忘れた訳ではない。
そんな残る記憶を掻きだしながら、彼女は考える。
夫を持ち、子供を持ち。ちっぽけな数になっても。
自分は生きている。
生活を続ける事が出来た。
それは幸福だったろうが。
だが無くなると思うと寂しい。
弟の事を思う。
あの穏やかで、愚かな彼は。
どのように死んでいくのだろうか。
あのボロ屋にガスが供給されているとは思えない。
インターネット回線すら止めた。
ならば放送も聞けないだろう。
親の見栄からかつての御所。洛中の中心部へと移された弟。
あそこは既にボロ屋だが。
しかし元は京都随一の一等地だった。
弟は親の見栄によってそこに移され、そこを守る事を意図せず強制されていた。
皇帝の血を引く唯一の男子。
そんな厄介な肩書を持つあの愚かな弟は。
しっかり、死ねるだろうか。
「家族」という肩書の中で、現在自分が思うたった一人の親族。
いま。それも無くなろうとしている。
悲しい。が。
それでも、生きていけた方だと考え付く。
忘れてしまった記憶が、疼くのだ。
過去どんな事があったかを……。忘れてしまった過去がささやく。
これは、幸福なほうであると。
隣に座る夫の手を握る。
自分という存在を選び、共に夫婦関係を築いてくれた彼に彼女は感謝していた。
夫ともにこの世を終える事が出来るなら……。
彼女は、満足に死ねると納得した。
放送が流れる。これがリピートになったらバルブを開けに行こう。
そう思って。
彼女は夫の手を握ったまま。共にソファーに座る。
そして彼の夫レイジは。
思い出していた。
浮かび上がっていた。
彼が思うのは。
隣に座る妻ではない。
息子のたかしの事でもない。
彼は。
彼はただひとつ。
鷹司京子。
今も女々しく恋い焦がれている。
己の初恋の相手。
彼女だけを考えていた。
考えて。考えて。
彼は勃起していた。
しかしそんな己の気色の悪い所業を悟られたくなくて。
わざとテレビの方に視線を寄せるよう覗き込み、彼は妻と共に静かに座る。
面影がある。
それだけで手に入れた。これといって愛していない妻。
世間体。それだけで儲けた。たかしという息子。
別に求めた訳ではない。欲しくなかった子。
いや欲しかった。そして手に入れたと思い込んでいる。
茂山レイジ。彼にとって子とは。
鷹司京介。彼のみだった。
彼女に似ていて。彼女と育ち。
彼女の血を濃く。濃く……。引いている。
あの頼りない彼こそが。
己の子と思い生きてきた。
勿論。そんな事あり得ないとは分かっている。
しかし。
そう思う事で、彼は失恋に終わった己が恋の代替をしていた。
彼女を失ってから満たされた事などない。
しかし。それでも生きている。
それは。
ひとえに彼女が居た世界を忘れない為。
そのために。彼は生きていた。
そしてその忘れ形見である彼を我が子であると思い込むで彼はその精神を保っていた。
しかしそれも今終わる。
愛していない妻の手を、愛していないように握りながら。
かつて電車の中で見た愛しき人の姿を思い出す。
それを思いながら。
彼はテレビから流れる音を、静かに聞いていた……。
滅びの日は近い。
この世に「あの世」があるのなら。
彼女はそこに居るのだろうか。
彼が考える事は。
ただ、それだけだった。




