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魔法瓶

数日後、冬の風がようやく静まった午前のことだった。


工房の扉が、軽やかな音を立ててノックされた。


「はーい、どちら様」


カイルが扉を開けると、にこやかな笑みが風のように入り込んできた。


「おはようございます」


立っていたのは、淡い灰色のコートを羽織った細身の青年──リアンだった。手には黒革の箱を一つぶら下げている。


「……もう、手に入ったのか?」


驚き混じりに尋ねるカイルに、リアンは何でもないように頷いた。


「我々には、指示さえすれば必ず成し遂げてくれる、優秀な『仲間』たちがいますので」


「へぇ……つくづく頼もしいな」


──味方であるうちは。カイルはそう心の中で付け加えた。


リアンはその心中を見透かしたように、意味深な笑みを浮かべた。


「他人事のようにおっしゃる。あなた方も、じきにそうなるのですよ」


そう言いながら、何気なく室内へと視線を巡らせる。


ネマがちょうど、本を手にしてソファへ腰を下ろそうとしていた。リアンは変わらぬ笑みを湛えたまま、軽く手を振る。


ネマは一瞬リアンと目を合わせたが、何かを感じ取ったのだろう。ぶるりと小さく肩を震わせると、そそくさと視線を逸らし、そのまま本を抱えたまま奥の部屋へと逃げるように引っ込んでしまった。


まるで狩りの獣に目をつけられた小動物のように。


その様子を見て、リアンは満足げに小さくうなずいた。


「……あんまり、いじめてくれるなよ」


呆れたように釘を刺すカイルに、リアンは目を細めて応じた。


「失敬な。私は『仲間』は大切に扱う主義ですよ」


普通は仲間を『扱う』なんて言わないんだよ、という言葉が喉まで出かかったが、カイルはすんでのところで飲み込んだ。



黒革の箱の蓋を開けた瞬間、ふわりと冷えた空気が揺れた。


その中に、風哭草は静かに横たわっていた。


小さな花弁は鐘のように垂れ下がり、雪のような白に、ほんのわずかに青が混じっている。霧が凍ったようなその質感は、触れることさえためらわせるほど、儚く、美しかった。


「……きれい」


ネマの声は、ごく小さく、吐息のように漏れた。


「これが風哭草……風が吹いたら、どんな音がするんだろうな」


カイルがぽつりと呟いたが、二人とも風を吹きかけてみようとは思わなかった。余計なことをして、万が一何かがあったら──その『もしも』が、今は恐ろしかった。


ネマは静かに息を整えると、風哭草の根に指をかけた。ひと呼吸おいてから、慎重にその根を摘み取り、あらかじめ用意しておいた手桶の清水にそっと沈める。


指先で表面をやさしく撫でるようにこすり、付着した砂や枯れかけた外皮を、少しずつ丁寧に洗い流していく。


その間、工房には水音だけが静かに響いていた。


「洗い終わったら、一日乾燥させる。水分は、抽出の邪魔になるから」


ネマの言葉にカイルは頷き、作業を見守る。


やがて洗浄の終わった風哭草の根は、木製の乾燥網に載せられ、調合部屋の一角に吊るされた。



翌朝。


工房にはまだ冬の朝日が届かず、ひんやりとした空気が漂っていた。


ネマは網から風哭草の根をそっと外し、指先で乾燥具合を確かめる。


その指は、わずかに震えていた。エリオの薬で抑えていたが、それも限界を迎えつつあることに、ネマだけは気づいていた。


「……大丈夫そう」


不安を振り払い、いよいよ抽出の準備に入る。


風酸は、あらゆる無生物を溶かす──もちろん、ガラスも例外ではない。


だからこそ二人は、風酸の抽出と保管に耐えうる特別な器具を用意していた。


一つは、両親が遺した調合台。魔力の場で素材を浮かせ、直接触れることなく錬金を行える構造になっている。接触を避けるには、これ以上ない設備だった。


もう一つは、魔法瓶と呼ばれる魔防壁付きの保存瓶。内側に強力な防護術式が刻まれており、内容物との物理的接触を完全に遮断する構造だ。


ネマとカイルは、繰り返し手順を確認しながら、器具を慎重に並べていった。


この日のために、できる限りの準備はしてきた。


それでも、心の奥に微かな緊張が残っていた。


──風酸は、すべてを溶かす。


一つのミスも許されない。それがわかっているからこそ、二人は慎重に慎重を期した。


ネマは調合台を起動し、淡く光る魔力場の中心にエタノールを注いでいく。風酸の成分を根から抽出するための溶媒だ。


続いてネマは刃物を使わず、素手で風哭草の根を一つずつちぎって溶媒に投じていく。金属は風酸で溶ける──だから使えない。


沈黙の中、ネマの呼吸だけが微かに聞こえる。喉が乾き、唇が張り付くようだったが、動きはひとつも乱れなかった。


溶媒を加熱しながら、魔力で渦を作って攪拌する。やがて、根の繊維からじわりと緑色の液体がにじみ出て、溶媒全体が淡い薄荷色に染まっていった。


それは少しずつ色を深め、翡翠のような深い緑へと変わっていく。


ネマは魔法瓶を調合台の下部にそっと配置し、抽出された液を球状にまとめる。


そこから、一滴ずつ──慎重に、瓶の中へと落としていった。


ぽとり、ぽとり。


静まり返った室内に、小さな水音だけが響く。

呼吸すらためらわれる、張り詰めた沈黙。


ネマの額には、かすかな汗が滲んでいた。指先の感覚が、わずかに鈍い。それは、以前よりも正確な調合ができないことを意味していた。だからこそ、全神経を集中させる。


やがて、最後の一滴が瓶に落ちた。


ネマは小さく息を吸い、口の中で封印の術式を唱えた。それに反応するように、魔法瓶の表面が淡く光り、やがて鎮まっていく。


「……うまく、いった」


ネマがぽつりと呟く。


カイルも、長く溜めていた息を静かに吐いた。


「……ついに、やったんだな」


その声には、驚きと、実感と、まだ信じきれない思いが入り混じっていた。


ネマは瓶の中の液体を見つめながら、小さく首を振る。


「まだ、終わってない」


彼女は静かに言った。


「ちゃんと確かめないと。……本当に、沈殿が消えるのか。それに、飲んでも安全かどうか」



「……よし。じゃあ、試してみるか」


カイルは沈殿入りの活力ポーションをガラス皿に少量注いだ。


その中に、風酸を一滴──


ぽとり。


液体同士が触れ合った瞬間、数秒の静寂。やがて、金色の沈殿がふわりと浮き上がり、まるで氷片が解けるように消えていった。


「……やった……」


カイルが息を呑みながら呟く。


ネマも目を見開き、皿に顔を寄せる。


「完全に……消えてる」


二人は顔を見合わせ、小さく頷きあった。


けれど、ネマはすぐに次の準備へと手を伸ばす。


「次、安全性」


カイルがうなずき、棚から鉢植えを一つ持ってきた。中には、ポーション調合に使う薬草が育っている。


ネマが小瓶から、慎重に風酸を一滴、葉の上に垂らす。


……何も起きない。


薬草は、風酸をかけられたことにすら気づかないように、変わらず立ち続ける。


だがその直後、鉢の底からぷす、と小さな音が立ち昇った。


見ると、鉢植えの土の上の一枚の枯葉が、ゆっくりと溶け崩れていった。


下部の土も黒く染まり、気泡とともにじゅくじゅくと崩れていく。


「……すごい」


ネマがぽつりと呟く。


「本当に、生きてるものには反応してない……」


カイルは、まるで奇跡でも見たかのように呆然と立ち尽くしていたが、やがて言葉を取り戻す。


「……これなら、使える」


長く続いた絶望と、数えきれない失敗の先にようやく見つけた、ほんの一滴の希望。その手応えは、確かにそこにあった。


しかし、カイルの脳裏には、いつかの記憶が張り付いていた。信じ込んでいた万能薬と、それがもたらした結末。


はやる気持ちを抑えながら、カイルは言った。


「最後に、本当に安全か、もう一度だけ確認しよう。……俺の指先に、一滴だけ垂らしてくれ」


ネマが驚いてカイルを見上げた。


カイルはまっすぐネマを見つめ返しながら、小指を差し出す。視線はどこか張りつめていて、恐れと決意が混ざっていた。


ネマは何も言わずに頷くと、風酸の瓶をそっと掲げた。


……そのときだった。


ピシッ──。


鋭い音が、空気を裂いた。


「……今の、音……?」


ネマとカイルは、同時に魔法瓶へと視線を向けた。


瓶の中央に、うっすらと白い線。


それは、蜘蛛の巣のようにじわりと広がり──


「……まさか」


カイルが声を絞るより早く、


パシンッ。


短く乾いた音とともに、瓶の底が抜けた。

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