自己耐性
パシンッ。
短く乾いた音とともに、瓶の底が抜けた。
「ネマッ──」
カイルは反射的に腕を伸ばし、ネマの肩を強く引き寄せた。床へ弾けた風酸が、さっと足元をかすめて過ぎる。
木製の床は泡立ち、まるで砂が崩れていくように沈み、黒い土が露出する。支えを失った机が、ゆっくりと傾ぎ、重力に従って穴の中に落ち──消えた。
ネマとカイルは、何もできずにそれを見つめていた。
部屋に、静寂が戻った。
揺らぎの収まった空気の中には、乱れて散らばった錬金器具と、ぽっかりと空いた穴だけが残った。
ネマはふと、手に残った瓶の破片を見た。わずかだが、ガラスの表面に水滴がついている。彼女はその一粒をそっと指先ですくい、床板に落とす。
じゅう……。
煙とも蒸気ともつかぬ薄い白が、床の木目からふわりと立ち上る。
「くそっ……」
ネマは珍しく、吐き捨てるように呟いた。
少し遅れて、カイルがうなされたように言う。
「……なあ、なんでだよ。なんで割れたんだ、あの瓶」
「……結露」
ネマの声は細く、小さく、どこか自分を責めるようだった。
「抽出のときに、風酸が少し気化してたみたい。それが瓶に結露して……外側から壊した」
「そんな、ことって……」
二人は準備した。錬金にも保管にも細心の注意を払った。風酸は、瓶の内壁に触れずに保管される。完璧な、はずだった。
でも──外側は?
そこまで、考えが至らなかった。
二人の間に言葉が落ちていく。静寂が、再び戻ってきた。
「……もう一回、やるしかない」
ネマが絞り出すように言った。
「リアンさんに、もう一度頼んで……それしか……」
ネマは俯いて、額に手を当てた。顔色は悪く、口元は白く乾いていた。
カイルは答えなかった。代わりに、風酸が消えていった虚ろな穴を見つめ続けた。
しかし、それは絶望からではなかった。
カイルの目は、穴の底、崩れ落ちた黒土の中に残った白い影に釘付けになっていた。
次の瞬間、カイルは穴へ飛び込んだ。
「お兄ちゃん!」
ネマが悲鳴のような声を上げる。
「無駄、もう風酸は……」
「違うんだ!」
カイルはそう言って、穴から這い上がってきた。その手には、しおれかけた白い花弁が握られていた。
──風哭草の花だった。
昨日、根を採ったあとに机に置きっぱなしにしていたもの。それが、床も机も地面も溶けた中で、唯一、無傷のまま残っていた。
「これ、溶けてないんだ」
「それが、どうしたの」
ネマは困惑した目でカイルを見つめた。
「だから、溶けてないんだよ。机も床も土も溶けてるのに、これだけ……」
「それは、生き物だから……」
「でも、もう死んでる」
カイルは興奮を抑えきれずに続けた。
「落ち葉も、木の床板も溶けた。生き物だって、死んだら溶けるんだ! でも、何でこいつは溶けない?」
ネマは、しばらく言葉を見つけられなかった。カイルは変わらずネマをまっすぐに見つめて続けた。
「急にごめん。でも、すごく大事なことだって、そういう気がするんだ。頼む──教えてくれ」
カイルの目はかつてなく真剣で、しかもそれは──諦めていない目だった。ネマは絶望を一瞬だけ忘れ、かつて読んだ生物図鑑の一節を思い出していた。
「……多分、自己耐性」
ネマが小さく呟いた。
「生き物が自分の毒で死んだら、生き残れないでしょ。だから毒のある生き物は、必ずその毒を打ち消せる仕組みを持ってる」
「そうか、自分の毒では、死なない……」
カイルは調合部屋を見回した。崩れた調合台、黒く焼けた床、割れた瓶。そして、棚の上にはまだ置かれていた──沈殿の残る、活力ポーションが。
その瞬間、カイルの頭の中で、離れた点と点が、一つの線で繋がった。
「そうだ、金紅樹だ! 何で、気づかなかったんだ……!」
困惑した様子のネマに、カイルは聞いた。
「なあ、金紅樹はどうなんだ? なんで、自分の樹液で固まって死なない? 魔力なんて、どこにでもあるのに!」
「それは──」
一拍遅れて、ネマも言わんとしていることに気付いたようだった。困惑した瞳に、じわじわと光が宿っていく。
「金紅樹にも、自己耐性がある……」
ネマは弾かれたように保管庫へ駆け出した。戻ってきた時、手にしていたのは、活力ポーションの原料に使う金紅樹の樹液の瓶。
カイルの目の前で、ネマは樹液の入った瓶に魔力を込めた。
沈殿は、起きなかった。
改めてネマは、樹液の瓶からカイルへと視線を戻した。
その瞳は、もう絶望に染まってはいなかった。




