咳と金環
その夜、カイルは久しぶりに深く眠った。
暗い記憶の海に沈むように、夢に出てきたのは、忘れもしない夜のこと。
それは──両親が倒れた、最後の夜だった。
薬棚の奥で、小さな器を抱えていた母が、突然咳き込み、床に膝をつく。
「っ、ゴホ、ゴホッ……ッつ、ゴホっ……」
声をかけるより早く、父が駆け寄り、母を抱きとめた。
その腕も微かに震えていた。父自身も、咳をこらえながら立っていた。
カイルはまだ子どもだったが、直感していた。
ふたりとも、もう限界を超えていることを。
母の目が、こちらを向いた。
その瞳に浮かんでいたのは──金色の輪。
小さな光のはずなのに、カイルの胸を貫いて、動けなくさせた。
「……ネマを、お願いね……カイル……」
その言葉が、燃えるような咳にかき消された。
父も同じ金の輪を浮かべ、肩で息をしながら母を支えていた。
ポーションの瓶が床に転がり、赤い液が静かに広がっていく。
冬が明ける少し前の、ひどく寒い夜だった。
──カイルは、夢の中でその場から一歩も動けなかった。
⸻
目が覚めたとき、カイルの額には、冷たい汗がにじんでいた。
「……どうせなら、もっと楽しい夢を見せてくれよ」
誰にともなく呟いて、布団から体を起こす。
隣室から、かすかな物音が聞こえた。
扉を開けると、ネマが目を覚ましていた。
カーテンを閉じたままの部屋はまだ薄暗い。
そのなかで、青い瞳がぼんやりとカイルを見ていた。
その瞳を縁取るのは、カイルの記憶の中でも最も鮮やかな、金色。
「……目、大丈夫か?」
そう声をかけると、ネマはゆっくりと首を横に振った。
「まだ、光はつらい。……でも、昨日より、ずっと楽」
言葉以上に、顔色は明らかに良くなっていた。
(……効いたんだ、薬が)
カイルは、心の底から安堵した。
だが──
その瞳に浮かぶ金の輪だけが、警告のように消えない。
まるで、「まだ終わっていない」と告げるかのように。
「……昨日、何があったの」
ネマが、静かにたずねた。
「エリオに薬をもらったんだ。覚えてないか?」
「……あまり。夢の中みたいで」
カイルは椅子を引き寄せて腰を下ろすと、エリオと話した内容を、できるだけわかりやすく伝えた。
活力ポーションに含まれる成分が、体内で沈殿を起こすかもしれないこと。通常なら分解される成分が、何かに阻まれて体内に残り、魔力と反応して沈殿になること。それが臓器に負担をかけていること。そして今は──その負担を一時的に軽くしているだけだということ。
ネマは、静かに聞いていた。
その表情は、どこか深い場所で、何かを手繰り寄せているようだった。
「……なるほどね」
少し間を置いて、ネマが呟くように言った。
「つまり、体の中で沈殿ができる理由が分かれば、治療のヒントになる」
「ああ……何か、思いつくか?」
「うーん」
二人そろって、うなった。
答えの出ない沈黙を埋めるように、カイルは言った。
「症状は、毎回同じなんだよな。まず咳が出て、血痰、それから金色の輪」
ネマが目を細めた。
「……咳、出てないけど」
「ああ、そうか。……今回は、マスクしてたから」
カイルは額を押さえた。そして、ぽつりと呟いた。
「そうすると、錬金病と金色の輪って、全然別の病気だったのか。なら『咳が出たらやめる』って約束、意味なかったな」
カイルは自嘲気味に呟いた。その約束は、ネマの命を守るため、二人で決めた一線だった。しかし、何の意味もなかった。
「……もしかしたら、関係あるかも」
ネマは考えながら言った。
「活力ポーションって、魔力と空気にすごく敏感なの。魔力に触れたら沈殿して、空気に触れたら分解される。だから、密閉して保管しなきゃいけないんだけど……」
ネマは少し間を置いて、ぽつりと続けた。
「……でも逆に言えば、空気が足りなかったら、成分は分解されずに残るってことだよね」
カイルが眉をひそめる。
「空気が……足りない?」
「お兄ちゃん、さっき言ってたよね。まず咳が出て、それから金色の輪が出るって。もし呼吸が苦しくて、ちゃんと空気を吸えてなかったら……体の中で分解されなくて、残っちゃってたのかも」
「そうだけど、今回は咳出てないだろ?」
ネマは、カイルの目をまっすぐ見て、ゆっくりと答えた。
「……でも、苦しかったよね、あのマスク」
「……あ」
カイルの中で、何かが繋がった。
呼吸が浅い状態で、活力ポーションを飲む。
分解されなかった成分が体内に残り、
そのまま魔力を受けて沈殿になる。
「……それが、金の輪の正体……?」
カイルはそう呟いた。
ネマは、まっすぐに頷いた。
「……たぶんね」




