第六話
見上げた夜空に、また星が流れた。
ひとつも眠たくならない。
ジョーンは草むらから立ち上がると、ポツポツと見える中庭の灯りを頼りに、あてもなく歩いた。
二カ月続いた国王一行の滞在も明日まで。
次の巡幸先に向かう前夜、兵舎では、父の兵と国王の兵たちが飲み騒いで別れを惜しんでいる。
ふらついた酒臭い兵士が、兵舎の戸口から出てきた。
ジョーンは少しだけ、足を速めた。
等間隔に松明に照らされた、丘の上の主塔に続く細い橋。上っていると、反対側から人が歩いてきた。
彼だと気づいたジョーンは、立ち止まり顔を伏せた。
どんな顔をしたらいいのか分からない。
彼が直ぐそばまで来たので、ジョーンは軽く膝を折った。
「──姫」
「殿下、護衛もなしに夜の外出は危険です……」
どうして最後の夜なのに、こんなに可愛げのないことしか言えないのだろう。
「姫、それはあなたのほうだ。夜道が美しい女性にとってどれだけ危険か、分からないのですか?」
「私の家ですもの」
ジョーンは子供のように顔を横に背けた。
細い橋、何とか彼の引き締まった体に触れずに横を通り過ぎた。
彼は本来手の届かない人。忘れてはいけない。
「明日、ここを発ちます」
王子は含みのある言い方をした。
ジョーンは足を止め、ラルフ王子に背を向けたまま頷いた。
彼とともに歌って踊ったこと。何度も目が合ったこと。
一生忘れないような気がした。
「ジョーン、悲しんではくれないのか?あなたは私の気持ちに気づいているはずだ」
ジョーンは下唇を指先でおさえて、目を見開いた。
息が上手くできない。
「お、……お戯れならおやめ下さい」
私は何を言っているの?
王子がうめいた。
ジョーンは自分の胸元を強くつかんだ。
「お、思い出を守りたいのです」
「ジョーン、思い出にしないでくれ」
ジョーンはうなだれた。
「私は遊びの恋はできない……」
「誰が遊びだと言った」
怒りを含んだ声が聞こえた。
「ジョーン。私たちの間にあるものを────素直に受け入れられないのか?」
ジョーンは目をぎゅっと閉じて、火照り始めた自分の体を強く抱きしめた。
「何と言われようと、必ずあなたを迎えに来る。他の相手と婚約することは許さない」
揺るぎない声に、ジョーンは少しずつ振り向いた。
まっすぐに彼女を見つめるラルフ王子。松明の炎が映り込んだ彼の瞳が、赤く見えた。
こんなに真剣な表情の彼を見たのは初めてだった。
「────ぼんやりとするな」
ラルフ王子の叱声に、ジョーンは追憶から引き戻された。
つよい日差し。ジョーンは激しくまばたきをして、肩を落とした。
重たく感じる男の体。
身動きができない。
王子と家臣達はもう馬に跨って、次の地に向かおうとしている。
ジョーンは気力を振り絞り両頬をピシャリと叩くと、素早く馬に乗った。
修道院から鐘の音が聞こえる。
ジョーンはその音色に合わせながら、馬の首筋を撫でた。
少しだけ懐いてくれた気がする。
酒場で盗んだこの澄ました馬には、ラフ──王子の愛称と同じ名前をつけた。
王子と家臣達が修道院から厩舎に戻ってきた。
暗い彼の表情。手がかりをつかめるはずがない。
ジョーンは眉尻を下げた。王子を騙しているような気分だった。
「まだいたのか野良犬」
陽気な護衛がジョーンに言った。
王子はわざとらしくため息をついて、ジョーンにパンを放った。
抱えたパンの香ばしいかおり。ずっと何も食べていなかったジョーンのお腹が鳴った。
「名前は?」
厩舎の外でパンをかじるジョーンに、王子が枝を差し出した。
ジョーンは大きく口を開いた。
どうして今まで気が付かなかったんだろう。
王子から枝を奪うように取り、ジョーンは地面に字を書こうとした。
手が止まった。
──この姿でも、彼は以前のように受け入れてくれるのだろうか。
地面に押しつけた枝が、ぱきりと音を立てて折れた。
王子が眉を顰めた。
「読み書きが出来ないのでしょう」
サー・トマスが、憐れむように言った。
久しぶりに訪れた、兄の城。
城下で聞き込みをしておけと若い護衛に言われていたのに、ジョーンは堀のそばでうろついていた。
跳ね橋を渡って城から出てくる重い足取りの王子達が見えた。
川沿いの街道わきには、忘れな草が一面に咲いている。
ラルフ王子はその淡いブルーの景色を見つめながら、手綱を引いて馬を止めた。
ジョーンは馬を下りて視線を巡らせた。彼が花を摘んだのは、こんな水辺だったのだろうか。
サー・トマスが額を手で拭った。
「まるで手がかりがないですね。次は何処に探しに行けばいいのやら……」
王子は山並みを見ながら眉を顰めた。
「陛下へのご報告はどういたしましょう」
「必要ない」
王子は素早く手を振りサー・トマスを退けた。
「……そもそもジョーン姫は殿下のお時間を割く価値のあるお方なのですか?」
若い護衛がぶつぶつと言った。
ジョーンは川で顔を洗うふりをしながら、その様子を覗いた。
尊大な物言い。きっとかなり高貴な生まれなのだろう。
「ジョーン姫が、本当に男と逃げていたら?……もういっそウィンチェスターに戻りませんか?男と寝床にいるところなんて目撃したら──」
王子に視線を向けた若い護衛が、急に息を呑み、跪いた。
「……口が過ぎました」
ジョーンは引きつった喉の前で両手を握りしめた。
「どうか、お慈悲を──」
若い護衛の震える声。
不自然なほど押し黙った王子は、腰に下げた剣の柄からようやく手を離した。
ジョーンは水を飲むラフのそばで忘れな草を摘んだ。
さりげなく視線を動かして王子を探すと、彼はひとり木の幹にもたれて立っていた。
ジョーンは空を仰ぎ、目を閉じた。
胸に言いようのない強い痛みを感じる。
王子が来て、そばの草むらに座った。
さっきの王子は、いつも家臣を思いやる彼らしくなかった。
まっすぐに前を向く姿が、少し恥じているように見えるのは、気のせいだろうか。
ジョーンは忙しく花を摘んで、彼に気づかないふりをした。
「……お前も彼女が逃げたと思うか?」
沈黙を破り、王子がひび割れた声をもらした。
ジョーンは彼の近くに寄り、首を横に強く振った。
王子は目を伏せて、僅かに頷いた。
ジョーンは無意識に、忘れな草の花束を彼に差し出した。
王子はかぶりを振って花を断った。
キラキラと日差しに輝く水面をラルフはぼんやりと見つめた。
いつかの、はにかむジョーンの姿が脳裏に浮かんだ。
卑屈な考えは捨てろ。
ジョーンが今、私の助けを求めていたらどうする。
ラルフ王子がふいに立ち上がった。
ジョーンは花束を後ろに隠した。
卑しい男に花を貰って嬉しいわけがないわ。
頬がじわっと熱くなるのを感じた。
ジョーンは立ち上がり、忘れな草の花束をい草でまとめて腰に下げた。
「それは何だ」
王子がジョーンの足元を見ている。知らないうちに羊皮紙が袖の中から地面に落ちていた。
ジョーンは慌てて拾い上げた。
ペトロネラの城から持ち出した、図形の描かれた羊皮紙。
王子に見せるべきか迷った。
彼まで呪われたら、どうしよう。
邪悪な模様が何かの力を発しているような気がした。
王子が右手の手袋を外して、羊皮紙に腕を伸ばした。
ジョーンは思わず、後ろに下がった。
後ろから羊皮紙を奪われた。陽気な護衛の男だった。
「何だこれは。気持ち悪いな」
取り返そうとしたジョーンの腕を、サー・トマスが強くつかんだ。
「お前、どうしてこんなものを持っている。お前が描いたのか」
ジョーンは目を見開いて、首を横に振った。
「以前捕まえた、いかれた呪術師が持っていたものに似ている。──殿下!お触れにならないほうが」
羊皮紙を手にした王子。眉をひそめてジョーンをじっと見据えた。
「異端者……」
若い護衛が、ぼそりとつぶやいた。




