第四話
街道をそれた所にある広い草原。
彼とよく来た場所。
初めて……一度だけ、彼と愛し合った場所。
無意識に、そこにたどり着いた。
ジョーンは木に馬をくくりつけ、隣の巨木の下で一晩を過ごした。
一睡もしないうちに、紺色の空のふもとに薄明かりが差し始めた。だんだん見えはじめた、草原に立つ木々の輪郭。
ジョーンは馬に乗ると、足で腹を軽く蹴った。
ウィックス男爵──ペトロネラの父親の城に着いたのは日の出の頃だった。
丘の上に見える男爵の木造の城。門塔のそばでは兵士達が集まり、主塔を見上げながらブツブツと話し合っている。
早朝から、妙に不穏な空気が漂っていた。
ジョーンは顔を伏せて、静かにその場を去った。
空堀沿いを歩き、主塔の裏手に回った。
空堀の底に生えたいばらの藪。
ジョーンは馬を木にきつくつなぎ、堀の中に下りていばらを足でかき分けた。
まるで、魂まで男になっていくようだ。
大きな石をどけた。人一人入れるほどの、小さな穴が現れた。
子供の頃、ペトロネラと見つけた、忘れ去られた隠し通路の入口だった。
ジョーンは貯蔵庫の床の石板を静かに押し上げ、城の中に入った。
パンとハム、コンポート。
子供の頃ここで嗅いだのと同じ、いろいろな食べものの混ざった香り。
少し煙った隣の調理場。
燃えさかる大きな炉の前で、料理人たちが怒鳴りながら、やけに慌ただしく働いている。
熱気がこもっていた。
ジョーンは息を止め、キッチンの端を平然を装って通り過ぎた。
皮むきをする少女達が、こちらを向いて目を見開いている。
背中に負ったリュートを大げさに指さして、ジョーンは吟遊詩人のふりをした。
二階の大広間。二人の兵士。
衝立の向こうから複数人の声がする。
足がすくんだ。
ジョーンは兵士の目を掻い潜って、三階へ続くはしごのように急な階段を上った。
自分がこんなことをしていることが、信じられなかった。
三階の男爵一家の居間には、誰もいなかった。
その隣にある朝日の差し込む礼拝堂。
ここにも、誰もいない。
ジョーンは祭壇の十字架を見上げながら、息を整えた。
あまりに無謀だったかもしれない。
この城を無事に出られるか。そのことばかりが気になってきた。
ジョーンは祭壇に向かって両膝をつき、胸の前で手を合わせた。
もう一度居間に戻ると、部屋に少し違和感を覚えた。
壁に掛けてある、運命の輪が描かれた、やけに大きなタペストリー。昔は無かった。
唇を噛みながら、目を細めた。
タペストリーをめくった裏は、さらに真っ黒い布が掛けてあった。
ジョーンは手を反射的に離した。
黒い布のむこうに何があるのか、何となく察した。
足に力を入れてタペストリーをしばらく見据えると、ジョーンは再びそれをめくった。
隠された小さな空間。
テーブルに置かれた、ヤギの頭と折りたたまれた羊皮紙。
その上の壁に、赤黒く汚れて逆さまになった十字架が掛けてあった。
ジョーンは口を手で覆い、顔をそむけた。
震える手で取った羊皮紙に描かれた図形。
あの時ペトロネラが立っていた、円形の図形に見えた。
円の中には、不気味な目がデイジーの花びらのように並んでいる。
中央には半分男で半分女の人物。
ジョーンは羊皮紙を焼き尽くすように、激しく睨みつけた。
ペトロネラはもう、友でも親族でも、何でもない──
カラスの馬鹿にするような鳴き声が聞こえた気がした。
呪いを解く手がかりになるかもしれない。
ジョーンは羊皮紙をたたんで袖の中に入れた。
腕にゾクゾクとするような寒けを感じた。
「止まれ!」
ジョーンは階段の上で、体をこわばらせた。
矛槍を持った兵士がこちらに駆けてくる。
急に冷たい汗が吹きだした。
ジョーンはがむしゃらに背中のリュートを指さした。
「旦那様に呼ばれた吟遊詩人じゃないのか?」
もう一人の兵士が言った。
ジョーンを引きずり下ろした兵士が、リュートにじっと目を向けた。
「何事です」
衝立の向こうから現れた男爵夫人──ペトロネラの母親。
兵士が真っ直ぐに立って頭を下げ、誇らしげに言った。
「奥様、吟遊詩人を連れて参りました」
「吟遊詩人?」
近づいた男爵夫人は、首を傾けながらジョーンの顎を人差し指で上げた。
ジョーンはペトロネラの母親の視線に、ぎこちなく頷くしかなかった。
「──ウィックス卿。もてなしはもう十分だ。そろそろ出立する」
聞き覚えのある声。胸の中が落ち着きなく騒ぎだした。
「殿下、まあそうおっしゃらずに。せめて、ペトロネラが帰ってくるまで……」
ペトロネラの父が手をすり合わせている。
その隣に座るラルフ王子が大きなため息をついた。
「それで彼女が帰ってくるのは、いったいいつなんだ」
ジョーンは彼に視線を奪われながら、ペトロネラの母の後ろをついて歩いた。
ジョーンに気がついた王子は、眉を高く上げてすぐにしかめた。
「殿下、吟遊詩人を連れてまいりました。歌を楽しまれてからでも、遅くはないのでは?」
ペトロネラの母が妖艶に言った。
上段に座る王子の正面に残された。
早くやれと顎でしゃくる男爵。ジョーンは喉をゴクリと鳴らして、背中からリュートを下ろした。
目を閉じ、一呼吸すると、ジョーンは吟遊詩人の真似をしてリュートをかき鳴らした。
王子を直視できない。
前のめりになっていた男爵。時間が経つにつれて、顔が徐々に険しくなっていった。
歌え!男爵の唇がそう動いている。
ジョーンは口を引き結んで、旋律を早く強くした。
「行くぞ」
王子が窓の外を見ながら立ち上がった。
王子の家臣達が動いた。
「誰だ!この男を連れてきたのは!」
男爵がジョーンを指差しながら、夫人を睨んだ。夫人は兵士を見据えた。
「旦那様が呼ばれたものとばかり……」
兵士が、か細く答えた。
王子はジョーンと合わせた青い目を、すぐさま冷ややかにそらした。




