第二話
忘れな草の花束が王子の手から床に落ちた。
ジョーンはそれを淀んだ目で見つめた。自分の荒い息遣いが、耳の奥で響いている。
胸にぽっかりと穴が開いたような気がした。
王子は背中をこわばらせて上段に向かい、椅子に座った。
斜め下を向いてしばらく黙り込んだ後、彼は視線を上げてかすれ気味の声を出した。
「説明せよ、ペトロネラ。とても冗談で済む話ではないぞ」
ジョーンを鬱陶しそうに払いのけたペトロネラ。床に両手をつきながら、媚びるような上目遣いで王子を見上げた。
ジョーンは全身の毛が一気に逆立つのを感じた。
いつもの、人のものを欲しがるときのペトロネラの目つきだ。
「先ほど申し上げた通りです。この男がジョーンの情人です!早く捕らえて!」
その場にいる皆の視線がジョーンの顔に向けられた。
ジョーンは見開かれた王子の目と、目を合わせた。
彼なら気付いてくれる。そう思ったのは間違いだった。
王子の青い眼差しは見たことがないほど殺気立っている。
「ペトロネラ!でたらめを言うな!」
つかつかと歩み寄った父が、護衛を押しのけてジョーンの襟ぐりをつかんだ。
「この男がジョーンをかどわかしたに決まってる。言え!娘はどこだ!」
父に初めて怒りをぶつけられ、ジョーンはガタガタと震えながら涙を流した。
父がジョーンを突き飛ばして、冷たく上から見下ろした。
「衛兵!衛兵!こいつを地下牢に入れて、鞭で口を割らせろ」
捕らえに現れた衛兵達。
ジョーンは逆らう気力が残っていなかった。
カビ臭い地下牢。子どもの頃は幽霊の部屋、そう呼んでいた。
あそこに近づいてはいけないよ──何度も両親から教わった場所だった。
窓のない独房は真っ暗で、何も見えない。身動ぎをするたびに、後手につけられた手枷の鎖が金属音を鳴らした。
今まで、どれだけ恵まれた人生だったか、ジョーンは身にしみて感じた。
従姉妹のペトロネラ。 血縁のある彼女がまさかここまでするとは思わなかった。
彼女が黒魔術に傾倒している。あの噂を、信じればよかった……
ジョーンはうずくまった。
肌に当たる筋ばった体を信じたくない。
深く息を吸った瞬間、足音が聞こえた。
ジョーンは体を硬くして身構えた。
扉の上部にある、小さなのぞき窓にかざされた松明。その後、そこに王子の顔が見えた。
ジョーンはすっと立ち上がった。
静けさの中、扉の向こうにいる彼の強い気配を感じる。
鞭打ちに来た兵士ではないのに、体の力が抜けない。
しばらくすると、ジャラジャラと何かが鳴った。
ガチャンと衝撃音がした。
扉がきしみながら開き、王子が狭い独房の中に入った。
ジョーンは松明の眩しさに、目を細めた。表情を抑えたラルフ王子が、見知らぬ他人のように見える。
この身を捧げたことさえあるのに。
王子は何も言わないまま、ふいにパチパチとはじける松明をジョーンに突きつけた。
じわじわと近づく炎の熱さ。ジョーンは息を呑んだ。
歯を食いしばって、すみれ色の瞳で王子を睨みつけた。
睨み合いが続いた。
ラルフは、男を見ながら、はっと息を吸って何度もまばたきをした。
「お前……」
知らないうちに、松明を持つ手が下がっていた。
強気なのに儚げな、彼女と同じすみれ色の瞳。
血を見たい気持ちが、妙に萎えた。
「簡潔に答えろ。──お前はジョーンの男か?」
単調で冷ややかな声。
ジョーンは激しくかぶりを振り、力の限り声を絞り出そうとした。言葉にならない、惨めなあえぎ声だけが漏れた。
王子が眉間に皺を寄せた。
「話せないのか?」
ジョーンは唇を噛んで、仕方なくうなずいた。
王子が一歩近づいた。
「お前の話が本当だと、どう証明する」
相手が違うと、殿下はこんなにも変わるのね……
綺麗だと耳元で囁いてくれた彼の思い出が、今では虚しい。
松明の炎が生きているようにうごめいた。
ジョーンは彼と目を合わせたまま、背中を丸めて炎に顔を近づけた。
王子の喉が、ゴクリと鳴った。
前髪が燃える不快な臭い。
急に、王子は松明を高く上げた。
「不遜な奴め」
ジョーンは詰めていた息を吐き出した。
ポタポタと、どこかから水滴の落ちる音が聞こえた。




