第一話
ラルフは馬を止めた。川辺一面に忘れな草が咲いている。
──そうだ、いいことを思いついた。
喜ぶジョーンの顔を思い浮かべると、急に肌がぞくぞくとした。
今すぐあの笑顔が欲しい。
「美しいな。あの花をジョーンに届けよう」
家臣たちがうめき声を漏らした。
「殿下、ダンズウェルはここからかなり距離が……」
ラルフが冷ややかに一瞥すると、腹心のトマスはピタリと口を閉ざした。
日が沈んだ。
苔むした森の中は、夕焼け後の青い光に包まれた。
どれほど歩いただろう。
ジョーンは前を歩くペトロネラの背中を睨みながら、とげとげしく口を開いた。
「ペトロネラ、話は何なの?どこまで連れて行くつもり?」
狼の遠吠えが聞こえた。
ジョーンは腕をぎゅっと抱えて、周りを素早く見回した。木々は黒い影になっている。
「難癖をつけるだけなら、城でもできるでしょう。なんでこんな所に……」
あなたはラルフ殿下に相応しくない。
ペトロネラがまたそう言うつもりなのは、分かっている。
歩みを止め、ペトロネラが振り返った。
「ここでいいわ」
ペトロネラは一本の細枝を拾うと、腰帯のポーチから羊皮紙を取り出して地面に広げ、その上に立った。
ペトロネラが細枝の先をジョーンの顔に、唐突に突きつけた。
森のどこからか、不気味な笑い声が聞こえる。
旋回しながら飛んできたカラスがペトロネラの肩に止まった。
ブツブツと、古語のような言葉をつぶやきはじめたペトロネラ。
彼女の持つ枝がピシッと音を立てた。
逃げ出そうとしたジョーン。なぜか、身動きがとれなかった。
手足の感覚が消えていく。ジョーンは地面に崩れ落ちた。
「生かしてもらえるだけ、ありがたいと思いなさい」
意識が途切れる前、悦に入ったペトロネラの声が聞こえた────
顔を照らす木漏れ日。
森の中で、ジョーンはぼんやりと目覚めた。
男に姿を変えられたと気がついたのは、水を飲むために湖をのぞき込んだ時。
水面に映る見知らぬ青年が、自分を見つめ返していた。
真っ白になった頭で何とか歩き続け、ジョーンは城の門塔までたどり着いた。
夢から覚めようと、何度も叩いた頬がヒリヒリとしている。
頬をおさえながら丘の上の主塔を見上げた。風にはためく、紋章入りの旗。父の城。
この姿を見たら、お父様とお母様は……
殿下は……
ジョーンは項垂れながら顔を両手で覆い、なんとか涙を堪えた。
跳ね橋の左右にいる二人の門番が、槍をクロスさせて彼女の行く手を阻んだ。
「何者だ、名前を名乗れ」
いつもは腰の低い顔見知りの門番が、威圧的に言った。
──そこを、どきなさい。
そう声高に言おうとしたのに、声が出ない。
ジョーンは呆然と口を開けた。ペトロネラは、声さえも奪っていた。
隙をつき、二人の間をすり抜け主塔へ走ったジョーンは、あっけなく捕まえられた。
「その、見苦しい姿を何とかしろ」
門番はドレス姿の若い男──ジョーンを見ながら顔を歪めた。
くたびれたチュニックとショースに無理やり着替えさせられたジョーン。
暴れて疲れ果てた後連行されたのは、結局、主塔の大広間だった。
「ああ……ジョーン、あの子はどこにいるの?」
小窓から外を見ながら、母が美しい横顔を曇らせていた。
父は大広間の中ほどで、腕を組んでソワソワとうろついている。
口を引き結んで駆け寄ろうとしたジョーン。後ろに縛られた腕をつかむ門番の手に、ぐっと力がこもった。
「旦那様、よろしいでしょうか。不審な男を捕らえました」
父は、チラッと視線を向けただけで、煩わしそうに手を振った。
「今はそれどころではない。地下牢にでも入れておけ」
「仰せのままに」
ジョーンは必死で身をよじりながら、首を激しく横に振った。
「あなた、大変よ!あれを見て!」
窓に駆け寄り覗き込んだ父が、のけぞりながらうめいた。
「何でこんな時に王子が……。くそっ。おい、お前、こんなところで何をしている。早く門塔に戻ってお迎えしろ!」
「王子」という言葉に、ジョーンの心臓は止まりそうになった。
父の投げたゴブレットが飛んできた。
取り乱した門番が、躓きながら走って行った。
しばらくして、角笛の音が聞こえた。
存在を忘れられ、ジョーンはその場に立ち尽くしていた。
大広間に入ってきた王子が茶色のフードを脱いだ。 短く整えられたみごとな金髪が額にこぼれた。
ジョーンは、反射的に大きな柱の後ろに隠れた。惨めさに、顔がひどく火照ってくる。
「ダンズウェル卿。突然の訪問をお許しください。近くまで来たものですから」
王子の伸びやかな声が、大広間に響いた。
いつものように、ジョーンの胸がきゅっと締め付けられた。
「──殿下!いつ何時でも、歓迎致しますぞ。あなた様はジョーンの未来の夫!われらは家族同然ではありませんか!」
固まっていた父が、急にまくし立てた。
ラルフ王子が愉快そうに頷いた。
王子はマントを脱ぎ、真紅に金糸の刺繍のダブレット姿になった。
「あれを」
彼が手を差し出すと、護衛が野花を差し出した。忘れな草の花束だった。
王子はそれを優しく見つめた後、大広間を見回した。
「それで、わが婚約者殿はどちらに?」
ジョーンは唇を噛んで、込み上げる嗚咽を堪えた。
両親は口を開けたまま、何も言わず目を合わせている。
時間が止まったようだった。
眉をひそめた側近──サー・トマスが一歩前に出た。
「どうなされた。殿下の質問に答えられよ。ダンズウェル卿」
「伯父様、伯母様!ジョーンが……!」
わめきながらペトロネラが現れた。
「なに? 何なのペトロネラ!」
母が走り寄ってペトロネラの両腕をつかんだ。
「ジョーンが、男と逃げてしまいました。王子とは、結婚できないと!」
母が目を見開いて、後ずさりをした。
よくも──
ジョーンは柱の陰から飛び出して、ペトロネラに激しく肩からぶつかり、崩れ落ちた。
王子の護衛たちが、ジョーンの喉元に剣先を突きつけた。
脂を塗られて光る剣。
「この男!この男よ!」
ペトロネラがつんざくような声で叫んだ。




