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王子は私に気づかない  作者: あおき華子


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第十四話

 暗さに目が慣れて、次第に月明かりでも歩けるようになってきた。


 ジョーンは厩舎からラフを連れ出し、森に向かった。


 何か考えがあったわけでもない。

 木にラフを括り付け、切り倒された木の幹に座った。


 朝にならないと潮は引かないだろう。


 エドリック神父に助けを求めに行っても……戻る頃にはきっと式は終わっている。


 ジョーンは膝をかかえてうずくまった。


 繰り返し聞こえる波の響き。

 心が少し緩んでは、張り詰める。



 震える背中に、ラフがそっと鼻先を擦り寄せてきた。


 背中のリュートにラフの鼻が当たり、ポロンと音が鳴った。





 ラルフは森に入り、シダを踏み折りつる枝をかき分けた。


 あの男は本当に手間ばかりかかる。


 いばらでボロボロになった手袋を脱ぎ捨てて、髪に絡んだ蜘蛛の巣を乱暴に払い落とした。


 何も言わずに大広間を出てきた。ジョーンは心配しているだろうか。


 立ち止まり、少し息を整えた。



 潮騒の隙間に、リュートの音色が聞こえる。


 目を閉じ耳を澄ませた。


 やたらと溜めの長い弾き癖──


「……ジョーン?」





 音を立てずに歩き、音色を辿った。

 森の中の少し開けたところで、あの男がリュートを弾いていた。




 突然現れた王子に、ジョーンはぴたりと演奏を止めた。

 彼は何も言わずに佇んでいる。


 ペトロネラのところにいるとばかり、思っていた。


 ジョーンは王子から冷ややかに顔をそらして、倒れた木の幹から立ち上がった。


「待て……その、続けろ」


 勢いよく片手を前に出した王子にたじろぎながら、ジョーンは首をかしげた。


「リュートだ」


 突っ立つジョーンの横に、彼が座った。


「大切な、思い出の曲なんだ」


 大切……


 ジョーンは目を伏せ、ぎこちなく幹に座り直した。


 彼と共に弾いて歌った曲。私が弾いて彼が歌い、彼が弾いて私が歌った。


 出会った日のことを、彼も覚えていた。




 ジョーンの弾くリュートを、王子はひどく真剣に聴いていた。


 指がこわばりなめらかに動かない。

 本当はもっと上手く弾けるのに。


 ラルフ王子はジョーンの目を見つめながら、あの日のように歌い始めた。


 繊細で、優しさのにじみ出るような彼の歌声。


 ラルフ王子の声に包まれると、ジョーンはまるで自分が女に戻ったような気がした。


 彼が微笑んでいる。

 体が熱い。


 絶望的な状況を、一時忘れた。


 ジョーンが弾き終わると、王子が手を差しだした。


「今度は私が弾こう」



 王子がリュートを懐に抱えた。


 あの日と同じように、完璧なお手本のような演奏。


 歌声を誘いかけるような眼差しを見ながら、ジョーンは改めて感じた。


 ラルフ王子を深く愛している。

 ずっと変わらない。


 これはもう、自分ではどうしようもないことなのだと。



 ジョーンは知らぬうちに口を開けて、喉を震わせていた。



 王子が両眉を上げた。


 不安定な、耳慣れない若い男の歌声。少しして、自分の声なのだと気づいた。





 ジョーンはまっすぐに前を見ながら立ち上がり、唇を指でおさえた。


 王子が短い笑い声をあげた。

「声だ」


 ジョーンは激しく頷いた。


 彼がまた声をだして笑った。

「声を出せ」


 声を出すのがやけに恥ずかしい。ジョーンは口を引き結んでかぶりを振った。


「頭を振って答える癖が、染み付いているな」


 王子の瞳が、いたずらっぽく光った。

 

 喜んでくれているように見えた。


 馬のラフが自分を忘れるなとでも言うように、鼻を鳴らした。


「さあ、もう遅い。戻ろう」


 王子は自分の両膝を叩くと、晴れやかに立ち上がった。



 ジョーンはラフの曳き手を木から解きながら、自分の体を見下ろした。


 月明かりのもとでも、男の体のままであることは、はっきりと分かった。




 後ろを歩く男が、小さく声を出して喉を慣らしている。


 ラルフは胸の中に温かいものがじんわりと広がるのを感じた。


 本当に妙な男だ。

 ひ弱で無礼で、何をするか分からない。

 ラルフは口元に力を入れて、笑いを堪えた。



 城に向かいながら、不意に気がついた。

 声の出るようになった今、この男と共にいる理由が無くなったことを。


 ラルフは喉をごくりと鳴らして立ち止まり、後ろの男に振り向いた。


 戸惑う男の顔。


 本当にジョーンによく似ている。顔の造りというより、表情が。



 男の後ろで、急にコウモリの群れが飛び立った。


 馬が驚いて逃げ出した。


「ラフ!」


「ラフ?」


 しばらく二人で探し回っても、馬を捕まえることはできなかった。


 一旦諦めて、また城を目指した。




「あの馬は、ラフと言うのか?」

 ラルフはぎこちなく尋ねた。


「たまたま……付けた名前です」


 少し開いた唇の隙間から、男にしては高めの声が漏れた。


 そらした目が潤んでいるのを見て、その言葉は嘘だと分かった。


 何か言いたげな眼差し。


 視線が一度重なると、外せなくなった。


 漂う甘ったるい臭いに負けそうな、野花のような香り。

 空気に魔法がかかったようだった。



 ラルフは男の頬に手を伸ばし触れた。


 男が震えるため息をつきながら、従順に頬を擦り寄せ、手を重ねた。


「殿下……」


 ラルフは火傷をしたように、火照った頬から手を離した。



「寄るな」

 ラルフ王子が後ずさりながら言い放った。


 ジョーンは顔がカッと熱くなるのを感じた。

 自分が男の姿であることを、すっかり忘れていた。



 城の目前まで来ると、王子はやっと口を開いた。


「私の心はジョーンだけのものだ」



 どんどん先に歩く彼の背中が城の中に消えた。


 ジョーンは顔を両手で覆い、くぐもった叫び声をあげた。


 城の松明が、潮風に揺れてうごめいている。


 ……私がジョーンなのに



「ジョーン」

 ペトロネラの声。


 はっと振り向くと、彼女が後ろにいた。えづきそうになるほど、あの甘い臭いがペトロネラから漂っていた。


 胸壁の上から飛んできたカラスが、近くの木に止まった。

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