第三十九話:甦る父の教え、深淵の死闘
「デカいな……」
目の前で蠢く九つの首を持つ巨躯――『岩刻ヒュドラ』の圧倒的な質量と覇気に、俺の身体は本能的な恐怖で石のように固まりかけていた。洞窟の天井を突くほどのアギトが、所狭しと這い回る。
親父は、若き日のゼニスはこの化け物にどうやって挑んだんだ。幼い頃、見上げるほどに大きかった父の背中を思い出す。
「ふっ……」
極限状態だというのに、思わず笑いがこぼれた。迷いは消えた。
「親父なら……考える前に動いているな」
俺は雑念を振り払い、魔道石の光を背に、ヒュドラの懐へと飛び込んだ。
奔流のように迫りくる首を紙一重でかわし、死角から心臓部とおぼしき胴体へ、渾身の一閃を放つ。
――ギィン!
鼓膜を刺す鈍い金属音が響き、手首に強烈な衝撃が走った。剣が、弾き返された。
嘘だろ。岩石よりも硬い鱗に、魔力を込めた一撃が傷一つつけられない。剣先を見ると、無惨にも刃が潰れかけていた。
(クソッ、むやみに切りつければ、このなまくらは先に砕ける!)
戦慄した一瞬、気の緩みをヒュドラは見逃さなかった。横から迫った別の首の、鋭い爪が俺を襲う。
とっさに剣を盾にして防いだが、防ぎきれなかった衝撃波が俺の身体を吹き飛ばした。背中から岩壁に叩きつけられ、肺の空気がすべて弾き出される。
「ガハッ……!」
視界が明滅し、意識が飛びかける。だが、敵は待ってはくれない。俺を圧殺せんと、二本の首が同時に襲いかかってきた。
死の淵で身体が勝手に動いた。地面を蹴って跳躍し、迫る首をかわすと同時に、空中で剣を一閃。一本の首を根元から切り落とした。
「……あと、七つ」
着地し、そう呟いた俺をあざ笑うように、床に転がった首が霧散し、本体の切り口から新たな首が急速に再生を始める。
「嘘だろ……。これは、骨が折れそうだ」
それから、どれほどの時間が過ぎただろうか。
切っても切っても再生する首。剣を通さない強靭な胴体。俺の体力は限界を迎え、額からは滝のような汗が流れ落ちる。息は切れ、視界は朦朧とし、剣を握る手の感覚さえなくなってきた。
(……親父。あんたはどうやって、こいつを……)
絶望が心を支配しかけたその時、遠い過去の記憶が、走馬灯のように脳裏をよぎった。
それは、まだ俺が幼い頃、父と二人で小さな洞窟を探索した時の記憶だ。
岩陰にいたトカゲを捕まえようとした俺は、その尻尾を掴んだ。だが、トカゲは自ら尻尾を切り離し、驚く俺を置いて逃げていった。
千切れた尻尾を見て泣きそうになる俺に、親父は優しく笑いながら言ったんだ。
『驚いたか、アステリオ。トカゲの中にはな、尻尾が再生する奴がいるんだ』
『へえー、すごいね父さん!』
『ああ。……そういえば、昔、首が再生するもっとデカい化け物と戦ったことがあったな……』
その時、親父は少しだけ遠い目をして、俺の頭を撫でながら、独り言のように呟いた。
『――再生するなら、再生する暇を与えなきゃいい。切り口を、地獄の火で焼いちまえばいいんだ』
――そうだ。親父は、俺に教えてくれていたんだ。この化け物の倒し方を!
「……うおおおおおお!」
俺は残ったすべての魔力を振り絞り、咆哮とともに剣を握り直した。
ヒュドラと正対する。迫りくる首を紙一重でかわし、その根元をなまくらの剣で断ち切る!
切り落とした瞬間、俺は剣を捨て、左手を切り口にかざした。
「『ファイア・ランス』!」
至近距離から放たれた火炎魔法が、ヒュドラの切り口を直撃する。
ジュウウウッ、という肉が焼ける忌まわしい音と共に、ヒュドラが悲鳴にも似た雄たけびを上げた。焼けただれた断面の細胞がうねうねと蠢くが、再生は始まらない。
「いける……!」
確信した俺は、落ちた剣を拾い上げ、同じ要領で首を切り落としては、火炎魔法で焼き切っていった。
一本、また一本。
六本の首を完全に沈黙させたところで、ヒュドラは再生できない恐怖に狂ったようにのたうち回り、たまらず地中深配へと逃げ帰っていった。
「……はぁ、はぁ、はぁ……」
静寂が戻った空洞で、俺はその場にどかっと座り込んだ。
全身の筋肉が悲鳴を上げ、指一本動かす力も残っていない。視界が急速に狭くなっていく。
「……やったぞ、親父……」
俺はそのままばたんと仰向けに倒れ込み、泥のような深い意識の闇へと落ちていった。




