第九話:化けの皮
霊峰アイギス、王国軍野営地。
雲に覆われた暗闇の中、白い旗を掲げた人影が王国軍の陣地に向かって静かに歩いていた。入口で守備兵に呼び止められる。
「何者だ!」
槍を突きつけられても動ずることなく、その影は毅然と言い放った。
「勇者アステリオ殿に取り次いでいただきたい」
その影は深いフードを被り、さらに顔の部分には霧のような魔力が揺らめく**「認識阻害のベール」**を纏っていた。月明かりの下でもその容貌を伺い知ることはできない。
***
「なに……魔王軍の使者が俺に会いたいと?」
「はっ、顔を隠しておりますが、勇者アステリオ様に直接の取り次ぎを申し出ております。いかがされますか?」
しばし沈黙し、俺は決断した。
「会おう。ここへ通してくれ。それから……お前はヴィンセントを呼んできてくれ」
ヴィンセントを呼んだのは、これ以上、友を欺きたくないという俺の最後の良心だった。使者が来るまでの間、俺の頭の中は嵐のように混乱していた。
魔導のベールで顔を隠した使者……。あいつらは、俺の正体を知った上でここに来たのか?
ヴィンセントが足早に陣幕へ入ってきた。
「アステリオ、魔王軍から使者が来たらしいな」
「ああ」
「いったい何の用だ? 油断させておいていきなり襲いかかってくるかもしれん。気をつけろよ」
ヴィンセントの気遣いが、今の俺には痛い。
陣幕の外が騒がしくなった。重い足音とともに、使者が入ってくる。
ベールに隠された顔は、ヴィンセントの目からはただの「揺らめく影」にしか見えていないはずだ。だが、俺にはわかった。その立ち振る舞い、纏う魔力の波長――リリスだ。
「勇者アステリオ殿。できれば、お人払いをお願いしたい」
聞き覚えのあるその声に、隣のヴィンセントが微かに肩を震わせる。俺は周囲の兵を一瞥し、陣幕の外へ出るよう促した。リリスは隣に立つ男を見て問いかける。
「こちらの御仁は?」
「彼は俺の信頼できる友だ。一緒に話を聞いてもらう」
「……そうですか。アステリオ殿がそれでよろしいのなら」
リリスはゆっくりと、自らの顔を覆っていた魔導のベールを解いた。
フードの中から現れたのは、あの日、居酒屋で「ヴィンセントの恋人」として紹介された、あのリリスの顔だった。
「リリス……!? なぜ、君が……」
絶句するヴィンセント。リリスはその瞳に深い悲しみと冷徹な覚悟を宿し、俺に視線を戻した。
次の瞬間、彼女はその場に膝をつき、深々と頭を下げた。
「お久しぶりです。――魔王軍総帥、ヴェイル様」
陣幕の空気が、一気に凍りついた。
ヴィンセントの顔が劇的に引きつり、激しく息を呑む。
だが、俺は不思議と落ち着いていた。どこかで、こうなることを予見していたのかもしれない。
「……アステリオ。……今、この女は何と言った?」
ヴィンセントの震える声が、静寂を破った。
俺は答えなかった。ただ、膝をつくリリスをじっと見つめ返した。
ついに、積み上げてきた嘘の城が、足元から崩れ落ちる音が聞こえた気がした。




