第四章:第六話「英雄の影、父子の覚悟」
王都がアビスの奔流に抗っているその頃。
北の地、最終防壁に立てこもるアステリオと魔軍の間には、氷のように張り詰めた緊張が漂っていた。地平線の彼方から這い寄る、世界を塗り潰さんばかりのどす黒い気配。それは、魔力というよりは「死」そのものが物理的な質量を持って迫りくるような威圧感だった。
アステリオの隣には、副官グリルが静かに、だが揺るぎない忠誠を湛えて立っている。
「そろそろ来ますかな?」
「ああ」
短く答えたアステリオは、地平線へと視線を戻した。あの澱んだ黒い魔力の渦の中心に、父ゼニスがいる。かつて勇者として世界を救い、幼い自分を慈しみ守ってくれた父は、もうどこにもいない。
アステリオは、怒りとも悲しみともつかぬ、正体不明の感情に押しつぶされそうになるのを必死にこらえていた。
「……少し、部屋に戻っている。何かあれば呼んでくれ」
ギリリと奥歯を噛みしめ、アステリオはグリルに背を向けて自室へと戻った。
部屋のソファに深く腰掛け、天井を仰ぐ。
魔王の力を継承し、リナと出会い、仲間を得て、ここまで戦い抜いてきた。長いようで短かった旅路。数々の思い出が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
コンコンコン。
突然、控えめなノックの音が静寂を破り、アステリオを現実へと引き戻した。
「入れ」
ドアが開くと、そこにはノインが立っていた。だが、ノインは入り口に立ち尽くしたまま、一歩も動こうとしない。
「どうした?」
「パパ……僕……怖い」
絞り出すようなノインの声に、アステリオははっと息を呑んだ。
強大な魔王の血を継いでいるとはいえ、この子はまだ幼い一人の子供なのだ。自分自身の心の整理に精一杯で、一番近くにいる息子の不安に気づいてやれなかった。
アステリオはソファから立ち上がり、床に膝をついて両手を大きく広げた。
「おいで」
ノインが弾かれたように駆け寄り、アステリオの胸に抱き着く。
「ごめんなさい、パパ。怖いなんて言って……」
小さな肩を震わせる息子に、アステリオは優しく微笑んで首を振った。
「いいんだ。パパだって、怖いさ」
ノインが驚いたように顔を上げ、父の顔を覗き込む。
「怖いと思うことは、決して悪いことじゃない。生きる者は誰だって死を恐れる。自分自身の死も、大切な誰かを失うことも……。パパだって、ノインやグリル、仲間のみんなが傷つくことを、いつも怖いと思っているよ」
その言葉は、ノインに聞かせると同時に、自分自身に言い聞かせる誓いでもあった。大切な人たちを守るため、恐怖を抱えたまま、それでも前へ進む。アステリオの心に、静かな、だが決して折れることのない「覚悟」の灯がともった。
「敵襲うううううううう!!!!!!!!」
突如、防壁の各所から見張りの絶叫が響き渡る。
アステリオはノインの肩を抱き、真っ直ぐに立ち上がった。
「行こう、ノイン」
「うん!」
父と子の絆を再確認した二人は、運命の戦場へと足を踏み出した。




