第百四十九話:束の間の凪、そして胎動(第三章最終話)
北の果て、凍てつく辺境の地に隠された地下施設。
ゼインは、怪しく光る培養液の中に浮かぶゼニスを、ガラス越しにうっとりと眺めていた。先の戦いで損傷し、修繕を受けているかつての英雄――その肉体は、今や人の理を外れた不気味な脈動を繰り返している。
「ゼニス……早くしないと、モルガウスの『星喰』が終わってしまうよ。君という最高の駒を、あの老人に先を越されるのは癪だからね」
その時、培養液の中でゼニスの両目が見開かれた。
意志の欠落した、虚無の深淵。刹那、凄まじい衝撃波が内側から放たれ、強固な強化ガラスが「バリン!」と派手な音を立てて砕け散る。
飛び散った破片がゼインの頬を浅く切り裂き、そこから紫色の不気味な血が滴り落ちた。ゼインはそれを指で拭うと、恍惚とした表情でペロリと舐め、ニヤリと笑った。
「おはよう、ゼニス。……ククク、ギリギリ間に合ったようだね」
王都を包んでいた戦火の煙が消えてから、数週間。
瓦礫は片付けられ、市場には活気が戻り、街は穏やかな落ち着きを取り戻していた。
ヴィンセントは連日の公務に明け暮れていたが、その隣ではリリスが、有能な側近として、そして良き理解者として公私共に彼を支えていた。
アステリオの傷もようやく癒え始め、今では杖を突かずに歩き回れるまでになっていた。彼は一日の日課として、リナが養生を続けている離宮の一室へと向かった。
ドアを軽くノックすると、中から「はい」という、透き通った声が返ってくる。
数日前、リナはようやく意識を取り戻した。
グラシャの献身的な治療魔法によるところが大きいだろう。彼女は全ての魔力を使い果たすほどリナに尽くした後、「少し、故郷の冷たい水が恋しくなりました」と微笑み、絶界宮の先にある静かな湖へと帰っていった。
イザベラもまた、戦後の混乱を収めるためにガリウスのギルドを手伝い、相変わらず喧嘩をしながらも仲睦まじくやっているようだ。
アステリオは部屋に入り、リナのベッドの横にある椅子に腰を下ろした。
彼はリナの細い手を、壊れ物を扱うように優しく、そっと握る。リナがそれに応えるように、愛おしげな微笑みを浮かべた。
「コンコンコン」
小さなノックの音と共に、ノインが顔を出した。
「パパ、リナお姉ちゃん!」
ノインは当然のようにアステリオの膝の上に座り、二人の顔を交互に見ながら、太陽のような笑顔を浮かべる。
開け放たれた窓から、花の香りを孕んだ優しい風が流れ込み、カーテンを揺らした。
まだ、何も終わってはいない。
北の脅威も、遺跡の狂気も、明日には再び牙を剥くかもしれない。
だが……。
「今はただ、この幸せに包まれていたい」
アステリオは心の中でそう呟き、愛する者たちの温もりを感じながら、静かに目を閉じた。




