第百二十三話:贄の乙女、深淵の胎動
王都グランゼールの第一層城壁は、すでに阿鼻叫喚の地獄と化していた。
南門からはアステリオ率いる魔王軍が、その圧倒的な魔力と質量を背景に巨岩を投じ、北門からはヴィンセントとガリウス率いる民兵隊が、梯子を掛けて城壁へと取り付く。
「ひるむな! 教団の不当な支配を打ち砕け!」
ガリウスの咆哮が響き、民兵たちが血気盛んに突撃する。対する王国騎士団と教団の魔道師たちは、狂信的なまでの義務感に突き動かされ、熱せられた油や法術の矢を執拗に浴びせかけていた。しかし、その戦いにはどこか異様な空気が混じっていた。倒れゆく兵士たちの血が、泥に染み込む前に不自然な速さで大地へと吸い込まれていくのだ。
地上での激戦を嘲笑うかのように、王都の中枢、大聖堂の地下深くでは、世界を根底から腐らせるための儀式が最終段階を迎えていた。
広大な地下広場。その中心に鎮座するのは、おぞましい赤黒い脈動を繰り返す『星喰』の祭壇である。周囲の床には幾何学的な紋様が刻まれ、そこを流れるのは液体となった膨大な魔力と、戦場で失われた命の残滓だった。
「……ふふ、聞こえるぞ。星が恐怖に震える音が。供物は十分に集まった」
モルガウスが両手を広げ、祭壇に向かって不気味な詠唱を始める。彼の背後には、虚ろな瞳で祈りを捧げ続ける魔道師たちが円陣を組んでいた。
そして祭壇の中心、魔力の奔流が一点に集まる絶望の特等席には、拘束されたリナの姿があった。
「……お父様、もう……やめて……」
リナの弱々しい声は、父であるモルガウスには届かない。彼女は父の命により、愛するアステリオを裏切り、その情報を流し続けた。別れを告げられ、心を引き裂かれるような孤独の中にいた彼女を、モルガウスは「娘」としてではなく、単なる「最良の生贄」としてこの場へ引きずり出したのだ。
「お前のその、罪悪感に濡れた絶望の魂こそが、次元の裂け目を固定する最高の楔となる。お前がアステリオを想い、届かぬ許しを乞うて嘆けば嘆くほど、虚無の王は容易く降臨できるのだ」
モルガウスの瞳に、冷酷な光が宿る。リナの胸元に刻まれた呪印が赤く発光し、彼女の生命力を直接喰らい始めた。
その瞬間――。
城壁の外、魔王軍の本陣で指揮を執っていたアステリオの胸を、鋭い痛みが貫いた。
それはかつて、潜入者「ジン」としてリナと心を通わせ、愛を誓い合った者だけが感じ取る、魂の共鳴。裏切られ、一度は断ち切ったはずの絆が、彼女の絶望的な悲鳴をダイレクトに脳裏へ響かせたのだ。
「……リナッ!?」
アステリオは思わず胸を押さえ、王都の中央にそびえる大聖堂を見上げた。そこから、空を切り裂くような禍々しい黒い光の柱が立ち昇るのが見えた。
(モルガウス……! 貴様、実の娘を何に使うつもりだ!)
リナへの怒りは、すでに彼女を死なせたくないという剥き出しの執着へと変わっていた。アステリオの直感は告げていた。城壁を崩している間に、彼女の命は尽きる。
「グリル! 指揮を任せる。何があっても前線を維持しろ!」
「ヴェイル様? どこへ行かれるのですか!」
副官の問いに答える間もなく、アステリオは愛馬の腹を蹴った。
狙うは城壁の突破ではない。最短距離で、リナの元へ。
アステリオは単身、混沌の渦巻く戦場を、一閃の黒い雷光となって駆け出した。




