第百十四話:不落の激動、冷徹なる粛清
視界を塞いでいた淀んだ霧が、不意に晴れ渡った。
足元を絡め取っていた泥濘は終わりを告げ、硬い大地の手応えが足裏に返ってくる。
「ようやく湿地を抜けたか……」
ヴェナールの術式が解けた後、アステリオ率いる魔軍は、多大な精神的疲弊を抱えながらもようやく開けた平原へと躍り出た。目前には、地平線の先に王都グランゼールの巨大な影が姿を現している。
「急ぐぞ! ヴィンセントが待ちくたびれているはずだ。これより王都包囲網を完成させる!」
アステリオは部下たちを叱咤し、馬を飛ばした。湿地を抜ければ、王都の城壁まで遮るものは何もない。北からは師を越えたヴィンセントとガリウスが、南からは魔王の決意を固めたアステリオが。二つの巨大なうねりが、ついに教団の牙城へと牙を剥こうとしていた。
一方、王都グランゼールの内部は、かつてない動揺に包まれていた。
北の戦場から傷つき、這う這うの体で逃げ延びてきた騎士たちの姿に、民衆は言葉を失った。
「あの『鉄壁』の騎士団が敗れたというのか……?」
「北の反乱軍を率いているのは、あのヴィンセント様らしいぞ……」
「南からは魔王軍だ。奴らは人間を喰らい、死体を操るという。ああ、神よ……」
不安は毒のように街中に広がり、平和の象徴であったはずの広場は、今や絶望を囁き合う溜まり場と化していた。
その混乱は、王宮の奥深く、玉座の間をも支配していた。
「……バルダスが、討ち死にしたと……?」
報告を聞いた王は、崩れ落ちるように玉座に深く沈み込んだ。絶句する王の脳裏には、若き日から自分を支え、最も信頼を寄せていた忠臣の顔が去来していた。その喪失感は、王の魂から最後の気力を奪い去るに十分だった。
「王よ。こうなれば、このグランゼールにて迎え撃つしかございません」
静かに進み出たのは、モルガウスだった。その声には悲しみも動揺もなく、ただ機械的な冷徹さが宿っている。
「ご心配には及びません。備えは万全です。この不落の城そのものが、敵を滅ぼす祭壇となるでしょう」
「……うむ。もはや、おぬしに任せるほかあるまい……」
王の力ない返事を聞き届けると、モルガウスは深々と頭を下げ、冷たく翻って退室した。
王宮の廊下に出ると、そこには痛々しく全身に包帯を巻いたヴェナールが、壁に手をつきながら待ち構えていた。
「申し訳ございません、大教主様……。アステリオに、湿地を抜かれました……」
ヴェナールの震える声に対し、モルガウスは歩みを止め、ただ無言で冷酷な眼差しを向けた。
その瞬間、ヴェナールの顔が極限の恐怖で歪む。
「あ……が、はっ……!?」
モルガウスの瞳から怪しい魔力の光が溢れ出した。刹那、ヴェナールの全身から血管が蛇のように浮き出し、皮膚の下で不規則に蠢き始める。内側から肉体を食い破るような激痛に、ヴェナールは悲鳴すら上げられず、全身の毛穴から血を噴き出してその場に崩れ落ちた。
「使えない奴だ……。実験体としての価値すらなくなったか」
モルガウスは、かつての側近を汚泥を見るような目で見下すと、一瞥もくれずに何事もなかったかのように歩き出した。
廊下に残されたのは、痙攣し、物言わぬ肉塊へと変わりゆくヴェナールの無残な姿だけだった。




