第百十三話:泥濘の巨神、狂信者の残響
ヴェナールが広げた扇が、不気味な紫色の魔力を放つ。
それに呼応し、湿地の泥水が唸りを上げながら一点に集束し始めた。周囲の倒木や岩を骨組みとして飲み込みながら、それは見上げるほどの巨躯を持つ**「アースゴーレム」**へと形を変えていく。
「さあ、泥にまみれて果てなさい。それが貴方のような『紛い物』にはお似合いだ」
ヴェナールの嘲笑と共に、巨像がその太い腕を振り下ろした。
ドォォォン! という地響きと共に大地が爆ぜ、アステリオたちは後方へ跳んで回避する。だが、ここは足場の悪い湿地だ。着地の瞬間に泥に足を取られ、わずかな隙が生じる。
「ちっ、動きが鈍る……!」
「ヴェイル様、危ない!」
グリルの叫びと同時に、ゴーレムの追撃がアステリオを襲う。黒い剣で受け止めるも、その質量と粘りつく泥の圧力に、アステリオの身体は深く泥濘へと沈み込んでいった。リリスが魔炎を放つが、水分を多分に含んだ泥の巨躯は、焼かれた端から周囲の泥を吸い上げて瞬時に再生してしまう。
「無駄ですよ、無駄。この湿地にあるすべての泥が、この子の身体なのですから」
霧の奥で高みの見物を決め込むヴェナール。アステリオはゴーレムの猛攻を凌ぎながら、全神経を研ぎ澄ませた。
巨像の動き、魔力の流れ、そして――その供給源である「嫌な気配」。
(……見つけた)
ゴーレムが再び拳を振り上げた瞬間、アステリオは回避するのではなく、あえて前へと踏み込んだ。
「ヴェイル様!?」
リリスの悲鳴を背に、アステリオは漆黒の魔力を剣に凝縮させる。巨拳が振り下ろされる寸前、彼は泥の腕を駆け上がり、霧の奥――ヴェナールが潜む一点へ向けて、音速を超える一突きを放った。
「黒閃!!」
漆黒の刃から放たれた衝撃波が、ゴーレムの肩を貫き、その直線上にいたヴェナールを強襲する。
「――なっ!?」
回避が間に合わず、ヴェナールは咄嗟に身をよじったが、魔力の刃はその細い肩から胸元にかけて深く切り裂いた。鮮血が湿地の泥を汚し、ヴェナールの悲鳴が霧に響く。
「……あ、あぁぁ……私の、私の美しい服が……! この私が、貴様のような野蛮人に傷をつけられるとは……!」
ヴェナールは顔を歪め、傷口を押さえながらふらふらと後退した。核である彼が負傷したことで、主を失ったアースゴーレムが崩壊し、ただの泥水へと戻っていく。
「今日はこのくらいにしておきましょう。ですがアステリオ様……忘れないでください。貴方が王都に辿り着いた時、そこに待っているのは勝利ではありません」
ヴェナールは血まみれの顔で、ねっとりとした皮肉を口にする。
「貴方が守ろうとしているものは、貴方の手で壊すことになる。……愛しのリナ様が、冷たい地下牢で貴方の『断罪』を待っていますよ。くく、あはははは!」
不気味な笑い声を残し、ヴェナールの姿は霧の向こうへと消えた。
アステリオは剣を鞘に収めたが、その拳は白くなるほど強く握りしめられていた。
「……リナが、捕まった……?」
湿地に静寂が戻る。だが、アステリオの胸中には、かつてない激しい嵐が吹き荒れていた。




