第百十一話:鏡面の迷宮、偽りの湿地
王都グランゼールの南方に広がる広大な湿地帯。
アステリオ率いる魔軍本体は、膝まで浸かる泥濘と、視界を遮る不気味な白霧に苦戦を強いられていた。
「はあぁ~……。ジメジメするし、靴は汚れるし……。私もヴィンセント様とご一緒して、爽やかな風に吹かれたかったのにぃ~!」
リリスが額の汗を拭いながら、これ見よがしにアステリオへ悪態をつく。アステリオはその声をBGM程度に聞き流しながら、慎重に軍を進めていた。
(ヴィンセントなら間違いなく北の敵を打ち破る。だが、もし俺がここで足止めを食らえば、合流が遅れ、彼は王都で孤立しかねない。一刻も早くここを抜けねば……)
いつの間にか、副官のグリルがアステリオの横に並んでいた。
「ヴェイル様、妙ですな。湿地は伏兵の適地……私が敵将なら間違いなくここに兵を置きますが、敵の気配が全くしません」
「ああ、俺も同じことを考えていた。それに……妙な既視感がある。先ほどから、同じ場所をぐるぐると回っているような感覚だ」
二人が不気味な静寂に眉をひそめていた、その時。後方からリリスの悲鳴に近い絶叫が響き渡った。
「ヴェイル様ぁぁぁ!! 大変です! 異常事態ですわ!」
「どうした、敵か!?」
「いえ、私たち……確実に同じところをループしています!」
「俺たちもそう思っていたところだ。だが、この霧だ。似たような景色が続いているだけだろう」
「違います! 絶対の、確実な、物理的な証拠がありますの!」
リリスが必死な形相で指さした先には、霧の中からぼんやりと浮かび上がる一本の大木があった。
「あれを見てください! 私がさっき、目印に彫ったものですわ!」
「……何?」
アステリオは確認のため、その大木へと歩を進めようとする。するとリリスが「行っちゃダメです!」「見なくていいです!」と、なぜか必死に彼の腕にぶら下がって止めようとした。
「放せリリス、確かめるだけだ!」
「いけません! ヴェイル様の高貴な瞳が汚れます! ああっ、見ないでぇー!」
必死に食らいつくリリスを力ずくで振り払い、アステリオは大木の幹の前に立った。
そこには、鋭い刃物で刻まれたばかりの、あまりにも「物理的」で「明確な」メッセージが残されていた。
――『ヴェイルのバカ』――
「…………リリスぅぅぅううううううううううう!!!」
「ひぃぃぃいいいいいい! ごめんなさい! あまりに暇で、つい筆が滑りましたのぉー!」
アステリオの怒号が湿地に響き渡る。
だが、その怒りはすぐに氷のような冷静さへと変わった。リリスのいたずらが証明してしまったのだ。自分たちがこの一時間、一歩も前に進めていないという事実を。
アステリオは周囲を睨み据えた。霧の向こう側から、自分たちを嘲笑うような、淀んだ魔力の脈動が伝わってくる。
「……遊びは終わりだ。教団の結界術か。――姿を現せ、モルガウス」




