第百話:白い追憶、約束の教室
絶界宮は、かつてない熱気に包まれていた。
回廊を埋め尽くす魔物たちの足音と、鋭い金属音が響き渡る。
「急げ! ヴェイル様よりいつ出陣の下知が出るか分からんぞ! 抜かりは許さん!」
グリルの怒号が下級魔族たちを叱咤し、戦備を急がせる。誰もが、春を待たずして始まるであろう「最後の戦い」の予感に身を震わせていた。
だが、その喧騒から切り離されたかのように、ヴェイル――アステリオの自室は静まり返っていた。
気品ある執務机の上には、一枚の手紙。アステリオは椅子に深く腰かけ、それを何度も読み返していた。
リナからの手紙。そこには、これまで自分を欺いていたことへの痛切な謝罪と、偽りのない本心が綴られていた。
そして最後には、こう結ばれていた。
『――もう一度だけ、お会いして話をさせてください。明日、あの学園の教室で待っています』
「……リナ」
大きなため息をつき、アステリオは背もたれに体を預けた。連日の激務と、信じていた者の正体を知ったことによる精神的な疲弊。彼は手紙を握りしめたまま、抗えぬ眠りへと落ちていった。
不思議な夢を見た。
境界も奥行きもない、ただ純白に染まった世界に、子供の姿をした「俺」が立っている。
傍らには、優美で高貴な空気を纏った一人の男が立っていた。男は柔らかな笑みを浮かべ、慈しむように俺を見つめている。
「……この世界をより良くするためには、一度すべてをリセットするしかないんだ」
男は俺の目線に合わせて腰を下ろし、静かに、だが抗いようのない響きで語りかけてきた。
「そのためには、『慈悲の心』を捨てなければならない」
「慈悲の心……?」
「そうだよ。お前は、私から切り離された『慈悲の心』そのものだ」
男の手が、愛おしそうに俺の頬を撫でる。
「お前のことは大切に思っている。だが……新しく完璧な世界を創るためには、お前を捨てなければならないんだ」
「待って……」
「お別れだ、アステリオ」
男は立ち上がると、振り返ることなく白銀の彼方へと去っていく。俺は声も出せず、指一本動かせないまま、その背中が遠ざかるのをただ眺めているしかなかった。
重たい目を開けると、部屋は真っ暗だった。
窓の外を見れば、月は中天にあり、夜が深いことを告げている。
「……あの男は、誰だ」
夢の残滓が、胸の奥で冷たく脈打っている。それが「神」の記憶なのか、自分自身の深層心理なのかは分からない。
だが……何かが動き出そうとしている。俺は、俺自身の手で、この歪んだ因縁に決着をつけなければならない。
アステリオは闇の中で、静かに、しかし鋼のような決意を固めた。
次の日の晩。
俺は建築士「ジン」の姿に変装し、人影のない王国の学園の前に立っていた。
かつて子供たちの笑い声が響いていた校舎は、夜の帳に包まれ、墓標のように静まり返っている。
俺はゆっくりと門をくぐり、約束の教室へと足を進めた。




